【台北歴史散策指南】その1 御成街道 ― 神社へと続いた幹線道路 ― 前編

台湾, 台北,

01 はじめに

台湾, 台北, 台北101
台北101


台北は台湾の首位都市であり、人口は250万4731人(2024年7月現在)。四方を山に囲まれた盆地にあり、北を基隆河、南から西にかけて新店渓が流れている。ここにはもともとケタガラン族の人々が暮らしていたが、16世紀頃から漢人住民の移住が始まり、都市を形成するようになった。清国統治時代末期には台湾省の省都にもなり、繁栄をみた。

その後、日本統治時代を迎え、台北の街並みは一変する。都市計画が立てられ、町並みはそれに従って整備されていった。城壁は撤去され、その場所には片側三車線の「三線道路」が敷設された。そして、ロータリーが設けられ、道路は碁盤の目状の配置となった。その様子は「東洋のパリ」と称されたが、確かに街路樹や街路灯なども整備され、公園を随所に配した町並みはその称号に値するものだった。

今回から、そういった台北の町の歴史をエリアごとに紹介していきたいと思う。見慣れた風景も歴史を知ると、それまでとは少し違った表情を見せてくれる。本稿がそういった台北再発見のきっかけになることを祈りたい。

台湾, 台北
台北駅前 忠孝西路


02 勅使街道~台北を南北に貫く幹線道路

現在、中山北路と呼ばれている道路は台北の市街地を南北に貫く幹線道路である。ホテルや銀行、オフィスなどが集まっており、台湾を訪れた旅行者は必ず一度は足を運ぶエリアとなっている。

台北の市街地を縦断する道路は何本かあるが、メインストリートと呼ぶにふさわしいのは、やはり中山北路である。「中山」とは中華民国の国父とされる孫文のことで、道路は南門に近い愛国路との交差点を起点とし、総統府(旧台湾総督府)の正面にある東門を経由して、一直線に北へ向かっている。途中、忠孝路との交差点までは中山南路、それよりも先は中山北路と称される。

この道路は市街地のはずれで、基隆河を渡り、士林地区に向かう。なお、中山北路の終点となっているのは高級住宅街として知られる天母地区となっている。今回は圓山大飯店(グランドホテル)までの区間を紹介したい。

中山北路は日本統治時代(1895~1945)に台湾神社の参道として整備された。清国統治時代にも台北の市街地から剣潭寺へ向かう道路はあったが、これは細いばかりでなく、稚拙な造りだったので、日本統治時代に入った後に整備された。当初は道幅が15メートル、1937(昭和12)には55メートルに拡張されている。街路樹には相思樹とクスノキが植えられていた。1940(昭和15年)には水銀灯も設けられた。

終戦まで、多くの皇室関係者や政府要人が台湾を視察に訪れたが、その際、台湾総督府に到着した賓客は、真っ先に台湾神社へ参拝に向かうというのが通例となっていた。これにちなみ、道路は「勅使街道」と呼ばれるようになった。さらに、1923(大正12)年4月の皇太子(後の昭和天皇)行啓の際には「御成街道」、「御成道路」とも呼ばれるようになった。

台湾, 台北, 御成街道
御成街道 (日本統治時代の絵葉書)


03 城壁の跡地に設けられた三線道路

清国統治時代の台北は四方を城壁に囲まれた城郭都市であった。領台後、日本人はこの城壁の内側、すなわち「城中」と呼ばれた地区に各種機関を置き、そこに集まって暮らしていた。このエリアは日本統治時代、「城内(じょうない)」と呼ばれた。

城壁の完成は1884(光緒10)年11月だったという。台湾は1886(光緒12)年に福建省から分離され、台湾省となったが、その初代巡撫(知事)だった洋務派官僚・劉銘傳の時代に行政庁舎がこの城壁の内側に設けられた。そして、日本統治時代に入ると、台湾総督府や高等裁判所なども設けられていった。

台北城の城壁は領台後、1904(明治37)年に撤去された。ここに用いられていた石塊は台北市内の衛生設備の建設に転用された。疫病が蔓延する地として恐れられていた台湾だったが、当時は熱帯病に対する治療法が確立されておらず、水回りを整えて予防することにとどまっていた。そのため、上下水道の整備が急務となっていた。そういった状況から、城壁を取り壊し、その石材を水道設備に転用したのである。この時、石材は氾濫が頻繁に起こっていた淡水河の護岸壁にも使用された。

城壁の跡地は道路として整備された。これが通称「三線道路」と呼ばれる大通りである。現在の中山南路はその三線道路の東辺で、北辺は忠孝西路、西辺は中華路、南辺は愛国西路となっている。

なお、要人の台湾神社参拝は台北駅か台湾総督府、もしくは宿泊地になっていた台湾総督官邸(現・台北賓館)を起点とすることが多かった。台北駅から向かう場合、まずは三線道路の北辺を進み、台北州庁(現・監察院)の前にあったロータリーを左折する。ここから御成街道を進んでいった。

台湾,台北,総統府, ケタガラン大道
総統府とケタガラン大道


04 日本統治時代の御成街道を歩く

御成街道はまず、左手(西側)に高級料亭の「梅屋敷」を見る。ここはかつて孫文が立ち寄ったことにちなんで、「国父史蹟紀念館」という名で整備されている。美しい木造建築と庭園が印象的だが、和風庭園は巧妙に中華風のテイストに変えられている。

この建物の北側には市民大道という道路が走っているが、ここはかつての鉄道線路の用地跡である。台北市内の鉄道線路は全て地下化されており、地上を歩いているかぎりでは痕跡を見ることはできない。また、梅屋敷の家屋も、戦後に数メートル、移設されている。

その先、中山北路の右手(東側)には数軒の老家屋が残っている。中にはかつての石井餅菓子店や照島時計店など、往年の姿を保っているところも見られる(拙著『台北歴史建築探訪』ウェッジを参照)。すでに営業はしていないものの、そこにはしっかりと歴史が刻まれているのがわかる。

長安東路との交差点には林田桶店がある。店主の林相林氏は気さくな人柄で、観光客を含め、多くの人に愛された人物である。林相林氏は昭和4年11月5日生まれ。やはり桶職人であった父を継いで、この店を切り盛りしてきた。残念ながら、多くの人に惜しまれつつ、故人となったが、店は子息が継いでおり、営業を続けている。

台湾, 台北, 林田桶店,
林田桶店


建物は大正時代から昭和初期にかけて流行したスタイルである。洋館風だが、華南地方に起源をもつという亭仔脚(台湾式アーケード)が見られる。隣りはかつては「和發」という屋号の雑貨商だったが、現在は改装され、「満樂門」という喫茶店になっている。

この一帯は終戦まで御成町と呼ばれていた。長安西路を左折すれば、かつて台湾総督府が設けた技芸訓練所・職業案内所であった建物が残る。ここは現在、公共空間として整備されており、内部の見学が可能だ。その先には旧淡水線の大正街(たいしょうがい)停車場の跡地がある。鉄道は地下化され、線路跡は歩道となっているが、駅は痕跡を残していない。数年前までは木造の雑貨屋が残っていたが、現在はその姿を留めていない。

その先には台北市立建成尋常小学校があった。ここは現在、台北市立當代芸術館というモダンアートをテーマとした美術館となっており、一部が建成国民中学の校舎となっている。戦後は長らく台北市政府(市役所)として使用されていたが、1994年に新庁舎が完成し、その役目を終えた。その後、台北市が指定する史跡となり、保存が決定。2001年5月に美術館としてオープンを果たした(続く)。


台湾, 台北,


台湾, 台北,


台湾, 台北,
國家戲劇院

コメント