片倉佳史の台湾歴史紀行5 台湾鉄道の父・長谷川謹介に見る児玉源太郎と後藤新平の人間学

台湾鉄道の父として慕われる技師

長谷川謹介に見る児玉源太郎と後藤新平の人間学



計画を前倒しにして完成した縦貫鉄道

台湾の鉄道の始まりは清国統治時代の末期、台湾巡撫(知事)の劉銘伝の時代に遡る。しかし、清国が設けた鉄道施設はあまりにも稚拙で、大規模輸送機関と呼べるようなものではなかった。初代台湾総督の樺山資紀(かばやますけのり)も台湾経営の一大急務として、基隆(きいるん)と打狗(たかお、後の高雄)を結ぶ縦貫鉄道の敷設を挙げている。

一八九八(明治三十一)年二月に児玉源太郎が第四代台湾総督に就任すると、民政局長(後に民政長官と職称変更)に後藤新平が起用された。日清戦争後の検疫以来のコンビ復活であった。児玉は後藤が着任するや、官設鉄道の敷設を立案している。帝国議会に縦貫鉄道敷設と在来鉄道の改良工事の予算案を出し、十箇年継続事業として工事は始まった。鉄道部長には後藤が就き、総務、工務、汽車、運輸、経理の五課が置かれた。

 このとき、技術方面の総責任者に抜擢されたのが長谷川謹介(はせがわきんすけ)だった。長谷川は初代技師長という地位のみならず、工務、汽車、運輸の三部門の長も兼任した。

 長谷川は一八五五年、長門国厚狭郡千崎村(現在の山口県山陽小野田市)の出身。一八七四年に当時の鉄道寮に入り、鉄道に関する各種技術を習得。その後、工部省技手となる。その後、一九一八(大正七)年に鉄道院副総裁をもって勇退するまで、半世紀近く、日本の鉄道事業に奉職した人物である。

 長谷川が台湾に関わったのは一八九九(明治三十二)年から十年ほどである。当時の長谷川は官職を辞し、日本最初の私鉄とされる日本鉄道の技師となっていたが、後藤の招きで新領土台湾でその能力を発揮することになった。

 長谷川は着任するや測量隊を組織し、各地へ派遣した。自身も現地に赴き、状況を把握することに努めた。同時に、セメントや材木、石材などの建設資材を購入するため、一年のうちに三度も上京している。まさに想像を絶する働きぶりだった。

 当時の鉄道建設は一刻も早く、そして、わずかでも先に線路を伸ばすことが求められていた。そのため、長谷川も不要不急の箇所は後回しにし、経費を切り詰めながら、大胆に工事を進めていった。

 そして、一九〇八(明治四十一)年四月二十日、縦貫鉄道は全通を果たす。一八九九(明治三十二)年に予算二八八〇万円の十年計画で始まった工事は、予定よりも一年ほど前倒しで終了した。そればかりでなく、経費を一三〇万円、節約した上での工事完了だった。

 物資の不足、疫病の蔓延、運搬の困難、人手不足、自然の猛威と困難が折り重なる悪環境の中で工事は進められたが、長谷川の手腕により、想定されていた以上の成果がここに実現したのである。そのほか、長谷川は在任中、縦貫鉄道の敷設のみならず、台湾東部の鉄道や阿里山森林鉄道の調査も行なった。人々は長谷川を「台湾鉄道の父」と慕い、台北駅前には長谷川の座像が置かれた。



徹底した合理主義と現実主義

 長谷川は実直な人柄で部下から慕われていた。そして、児玉や後藤からも絶大な信頼を得ていた。縦貫鉄道の建設について、後藤と記者による興味深いやりとりがある。島の南北を結ぶ鉄道は歴史に残る大事業だと絶賛する記者に対し、後藤は以下の言葉を返しているのである。

 「自分は台湾を去るまで鉄道部長の職にあったが、それは名義だけのもので、鉄道建設についてはすべて長谷川に一任していた。自分は盲判を捺していたようなもので、鉄道のことはほとんど知らない。それは技師長に長谷川という人物を得たからに他ならない。長谷川は責任感が強く、あくまで完全を目指す人物だったので、安心して任せることができた」

 実際、民政長官の地位にあった後藤は多忙を極めており、現場で采配を振るったのは常に長谷川だった。そして、長谷川は後藤の期待に完璧をもって応えた。長谷川自身、後藤を慕う気持ちは強かったようで、縦貫鉄道完成の要因として、真っ先に後藤への絶対的信頼を挙げている。

 考えてみたいのは、後藤と長谷川の関係が児玉と後藤の関係に酷似していることである。後藤が台湾に来た当初、児玉が後藤の身に降りかかる数々の妨害を排除し、後藤がやりたいようにやらせたというエピソードは広く知られている。後藤はそれによって実績を残していったが、長谷川もまた、後藤によって整えられた環境の中で、能力を最大限に発揮した。

 長谷川が台湾へ赴任した際、台湾にはすでに多くの技術者や作業員がいた。同時に、本土から若くて優秀な人材を新たに呼び込む必要があった。当然、両者の間には軋轢が生じる。そういった苦悩もかつては後藤自身が味わったものだった。

 人心を掌握する力量のみならず、より細やかに気を配り、環境を整えられる指導者・上司が当時の台湾には不可欠だった。それが後藤にとっては児玉、長谷川にとっては後藤だったと言える。かつて児玉が後藤に語ったように、「責任はすべて自分がとるから、君はやりたいようにやりたまえ」などと、後藤が長谷川に語っていたら、まさしく、児玉と後藤の関係そのものと言えるだろう。

 さらに、合理主義に徹するという児玉の人柄も、長谷川に少なからず影響を与えていた。長谷川は鉄道の運用効率に強くこだわり、縦貫鉄道敷設についても、大がかりな経路変更を断行している。これは輸送効率を重視したからに他ならない。台湾南部においても、築港間もない高雄の将来を見据えており、縦貫鉄道の終着駅を港近くに設けることにこだわった。

 長谷川は「無駄のない輸送経路の構築が台湾の未来を支える」という言葉を残し、鉄道と港湾の連携を重視した。厳格なまでの合理主義と先見の明。これは明らかに児玉ゆずりのものと思えてくる。


現在も慕われる技師長

 縦貫鉄道は基隆から打狗(高雄)までの四〇八・五キロにおよぶ。その開業式典は開通から半年が過ぎた一九〇八(明治四十一)年十月二十四日に台中で挙行された。閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王をはじめ、貴賓が一六三名、その他、一千二百名の来賓が招かれた。

縦貫鉄道は殖産興業の面でも重い役割を担った。全通後も勾配区間の解消や複線化、高速化などが進められていくが、これは長谷川が育てた人材が受け継いだ。優秀な人材を鋭く見つけ出し、そして抜擢する。そして、大きな責任と権限を与え、力量を存分に発揮できる環境を整える。そう考えると、ここでも児玉と後藤の関係は、後藤と長谷川の関係にも受け継がれていることがわかる。

長谷川もまた、児玉や後藤と同様、部下を信頼し、人材の育成を重視した。明確なビジョンを持ち、無駄なく理想に近づく努力を続ける。その精神は「難治の島」と言われた当時の台湾を変えただけでなく、現在の台湾にも受け継がれている。台湾には日本統治時代に建てられた駅舎や建造物が守られ、中には史跡に指定されているところもある。そういった遺構を訪ね、台湾にかかわった明治期の日本人の姿に触れてみてはいかがだろうか。

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