片倉佳史の台湾歴史紀行6 東沙(プラタス)島の歴史 その1
台湾南部最大の都市である高雄市。その管轄地域は海の先にも存在している。今回は東沙(プラタス)島について述べてみたい。南シナ海の歴史、そして、知られざる日本との関わりについて考えてみたいところである。
南シナ海の真珠と称される環礁
東沙諸島は、またの名をプラタス諸島と呼ばれる。中国大陸からはわずか200キロ、香港からは南東の方向約330キロの距離にある。島の面積はわずか1.74平方キロで、東側に環礁が連なっている。標高は低く、常に風波に晒されている。当然ながら、有史以来、長らく無人島だった。
ここは南沙(スプラトリー)諸島や、西沙(パラセル)諸島と同様、アジアの火種として話題になることが多い。しかし、東沙の海域は台湾(中華民国)政府の実効統治下にあり、中国やベトナムからやってくる不法漁民との葛藤はあるが、現在のところ、武力衝突などは起こっていない。ただし、全域が管制区域となっているため、旅行者のみならず、台湾の一般市民も自由な渡航は認められていない。
現在、この島は中華民国政府の管轄下にあるが、終戦までは日本領だった。東沙のみならず、平田(ひらだ)諸島と呼ばれた西沙諸島、新南群島と呼ばれていた南沙諸島も日本の統治下に置かれていた。
なお、現在、西沙諸島は中国の実効統治下にあり、南沙諸島は中国、台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有を主張している。南沙諸島については中国と台湾、フィリピンとベトナムが分割実効統治を行なっており、群島で最大の面積を誇り、唯一真水が出る太平島は台湾が統治している。
東沙島は古くからその存在が知られていた。宋国時代や元国時代にはこの海域にある島々について、その存在が知られていたようだが、確実な記録が残るのは明国時代に入ってからとなる。
具体的には、第3代皇帝・永楽帝の時代、南海遠征で知られる鄭和(ていわ)の航海図に記載が見られる。鄭和は永楽帝による積極的な対外政策の一環で、7回の大航海を行なったが、その中でこの島の存在を確認したとされている。図中には「石星石塘」の文字があり、これが東沙島を示しているという。
この島が中国王朝の版図に組み入れられたのは清国の第4代皇帝・康熙帝の時代だった。そして、対外的に「東沙」の名が登場するのは第7代皇帝・嘉慶帝の時代で、1820年のことだった。
1866年には英国船が暴風雨に見舞われ、ここに避難したという記録があり、プラタス島という呼称はその際の船長の名にちなんだものとされる。ただし、これよりも前からポルトガル人やオランダ人はこの島の存在を知っており、1641年に描かれた地図にはすでに「Plat」、「Platas」という記載が見られる。
なお、1908(明治41)年に台湾総督府が行なった調査報告書は『プラタス島視察報告』という名になっており、東沙島とは記されていない。後述する西澤吉治に絡む事件以来、日本によって編まれた文献では「東沙島」よりも、「プラタス島」という表現をよく見かける。
日本人とアホウドリ
日本人の南シナ海進出についても述べておきたい。明治時代を迎えた頃、多くの日本人が航海に出ていた。その目的は羽毛を得ることだった。こういった「探検家」や「冒険家」は、まずは南太平洋方面、そして南シナ海方面を目指していった。南シナ海を目指す者は台湾が日本の版図に組み込まれた1895(明治28)年を境に一気に増えた。特に、台湾南部の高雄が港湾都市として整備されると、ここを拠点に民間人による南方進出が進んでいった。
彼らが最も熱いまなざしを向けたのは、アホウドリである。別名「信天翁」とも呼ばれ、全長90センチ、翼を広げると2メートルにもなる大型鳥である。風を利用して羽ばたかずに飛ぶという珍しい鳥で、捕獲が容易なために乱獲に遭い、絶滅してしまったところが少なくない。
東沙島についても、アホウドリの棲息する東京都八丈支庁の鳥島を開拓し、巨額の富を得ていた玉置半右衛門(たまおきはんえもん)、そして、日本最東端の地である南鳥島(マーカス島)の開拓で知られる水谷新六が1901(明治34)年に東沙島付近を探検したという記録が残っている。
ちなみに玉置はこの島にアホウドリが棲息していないことを知って開拓をあきらめ、水谷はアホウドリの代わりにカツオドリ(オサ鳥)を得ようと進出したが、本格的なものではなかった。
日本との接触が始まる
日本と東沙島の接点は諸説ある。1866年9月に八丈島の住民34名が同島に漂着し、漢人の漁船に救出され、香港経由で送還された。これが嚆矢と考えられる。
また、台湾総督府が編纂していた『台湾時報』(昭和14年11月号)によると、1902(明治35)年、基隆にあった西澤商店(後述)に所属する船頭の吉田という人物が神戸から与那国島を経て台湾に向かう途中で台風に遭い、福州に漂着。台湾に戻ろうとしたが、再び暴風雨に遭って南シナ海に流され、たどりついたのが東沙島だった。
この時、一行は船を安定させるために船底に石を積んだのだが、その石塊が図らずも燐礦石だった。これが西澤商店の主である西澤吉治(にしざわきちじ)の探検欲を掻き立てることになったのは言うまでもあるまい。
1905(明治38)年には貿易商社「恒信社」の長風丸が東沙島に達しており、同社は翌々年にも長風丸を東沙島に向かわせている。
続いて、1907(明治40)年の春には先述の水谷新六が「台湾丸」という帆船に乗り、香港経由で東沙島に向かった。水谷は同年9月8日の琉球新報に、最初の探検者としてコメントを残している。それによると、1902(明治35)年11月にアホウドリが群棲する島があると聞き、探検を画策した。調査の結果、下関条約で規定された台湾・澎湖地区の範囲外であり、同時にアメリカの統治下にあるフィリピンにも属さないことが判明し、探検を実行に移したという。
5月21日、一行は島に到達したものの、ここにはアホウドリが棲息していなかった。その代わりにカツオドリが棲息することは判ったが、一行は落胆した。しかも、この時は吹き荒れた暴風雨に見舞われ、船を失ってしまう。そして、一行は無人島に置き去りにされてしまった。
6月10日、台湾総督府は救助船「城津丸」を東沙島に派遣したが、一行はすっかり衰弱していたという。井戸を掘ったものの水質は劣悪で、無数に飛び交う海鳥は食糧にできたが、脂肪過多で下痢に苦しめられた。結局、魚と植物の芽を食べて飢えを凌いだと伝えられる。
なお、この時、漢人の漁師二人が島に立ち寄っており、海人草(まくり)を採集する傍ら、タイマイ(海亀の一種)を捕獲していた。一行は彼らが造った小屋に寝泊まりし、鍋や釣り竿を借りたという。後日、水谷はその時の親切に感謝し、ブランデー1本とパンを与えたという逸話が残る。
西澤島と西澤吉治
本格的な開発が始まったのは1907(明治40)年の8月からとされている。福井県出身の南洋貿易商・西澤吉治(にしざわきちじ)がこの島に到達し、「西澤島」と命名した。
西澤は基隆を拠点としていた貿易商であり、探検家であった。水谷は燐礦石の採掘には巨額の資本が必要なため、自身は断念するが、西澤に東沙島進出をけしかけた。二人は台北に向かい、台湾総督府殖産局長だった宮尾舜治を通じて、民政長官後藤新平と面会する。ここで実地調査と燐礦石の採掘を願い出た。その際、後藤は「清国との間に厄介な問題が生じ兼ねない」と懸念を示しながらも、「無主の地であれば、採掘を始めても問題はなかろう」と回答したという。
これを受け、西澤は事業に着手する。 行動は早く、1907(明治40)年8月8日午後4時半に105名が島に向かった。各種機材や建築資材を満載した「四国丸」は途中、澎湖(ぼうこ)に寄り、同月12日午前11時、東沙島に到着したとされる。
上陸は午後2時頃だったという。最初に行なったのは、長さ20メートルほどの竿を用い、日章旗を立てることだった。そして、木板に東沙島発見と探索の記録を記した碑を建てた。この時、島は「西澤島」、これに連なる環礁は「西澤礁」と命名された。
一行は宿舎の建設を行なって、島内の調査を始めた。そして、カツオドリの群棲地と燐礦石の存在を確認したほか、貝殻類の採取も行なった。
この辺りについては林四郎という人物が『まこと』(昭和12年10月1日版)に思い出話を語っている。林は島の開発に携わり、技師長を務めていた人物である。それによると、1907(明治40)年5月に小笠原と琉球で募集をかけ、労働者を連れて島に向かった。この記事では、採掘した燐礦石は高雄に運び、大日本人造肥料会社などに売り込んだという。
島には事務所や宿舎、医務室、倉庫、桟橋のほか、台車軌道(トロッコ)なども整えられていた。宿舎は木造家屋だったが、建坪100坪あまりの家屋もあった。また、地下水を得にくいということで、コンクリート製の大きな貯水塔や淡水化池まであったという。さらに自家発電施設を有し、電話なども整備されていた。
西澤島は北緯20度42分3秒、東経116度42分14秒の位置にある。典型的な熱帯性気候のため、ほぼ毎日スコールに見舞われる。夕方以降は過ごしやすく、高さ5メートルに満たない灌木が繁茂している。特に林投樹と桑が多かったという。
問題となったのは野菜が育たないことだった。種を蒔いても燐鉱石の多い土地では思うようには育たない。新南群島と同様、台湾島から様々な種子が持ち込まれたようだが、定着するものは少なかったようである。
一方、魚介類はとにかく豊富で、漁に長けた沖縄出身者に任せれば、一時間で100名分の食事がまかなえたという。同時に、海亀のタイマイも食料として重宝された。
台湾総督府が発行していた『台湾時報』には、1908(明治41)年6月16日現在の人口が記載されている。それによれば、西澤島の人口は424人。内訳は内地人が220人、台湾人が204人いた(台湾にいた中国人を含む)。平均年齢は27歳と若かった。
大半は労働者だったが、医師が2名、女性が25名、子供が17名いたことも興味深い。労働者については、採掘夫のほか、農夫、漁夫、水夫、大工、左官、鍛冶屋がいた。出身地については、内地人の大半を八丈島出身者が占めていた。八丈島は西澤が初めて実業界に出た時の思い出の地である。なお、台湾人は澎湖、桃園、基隆の出身者が多かった。
その2に続く

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