片倉佳史の台湾歴史紀行6 東沙島(プラタス島)の歴史 その2

前回に続き、中華民国が実効統治する南シナ海の東沙(プラタス)島について述べてみたい。高雄市に属する島だが、今回も知られざる日本との関わりについても考えてみたいところである(その1から続く)。


西澤憲章と独自通貨の存在

西澤島は西澤吉治という人物による私有財産であり、西澤商店による「企業島」であった。  西澤はこの島で暮らすに当たっての規則を設け、住民に順守を約束させていた。島の人口は400名に達しており、しかも、八丈島や沖縄出身者、台湾人、そして福州出身の中国人労働者が混住していた。そして、血気盛んな男性が多いこともあって、しっかりと統率する必要があった。

これは「西澤憲章」とも言われている。台湾総督府が発行していた『台湾時報』(昭和15年3月号)によると、その内容は以下の通りである。

(一) いかなる渡島者にも日当以外に月十円を給与する

(二) 支払い計算は十日目ごとに行う

(三) 喧嘩をした場合は罰金五十銭を科する

(四) 賭博行為をした場合は罰金五銭を科する

(五) 不明

(六) 罰金は島民の共済に用いる。天長節、神武祭、紀元節等の祝賀に用いる。もしくは病苦者に与える

(七) 酒は午後五時より七時まで、一人二合を限りに売る事を得る

(八) 朝は二時に起床し、二時半に喫飯(きっぱん)のこと

(九) 食事は毎日四度、無料にて給する

(十) 毎晩、仕事の帰りに入浴せしめ、湯上り後、医師をして健康診断を施さしむる



これらはいずれも西澤自身が考えたものだという。労働者の健康面を考慮するのはもちろん、仲睦まじく暮らすためには、守るべきルールをしっかりと守ることが不可欠である。これは西澤自身が青年時代、近衛師団の軍属だった時代に培ったものと推測される。

また、西澤島にはこの島だけで通用する紙幣が発行されていた。これは「西澤島通用引換券」というのが正式な名前で、いわゆる「私紙幣」である。発行者は西澤商会。種類は1銭、10銭、1円、5円、10円の5種類あり、1円と5円、10円については台湾銀行券とほぼ同じ大きさだったという。


西澤島通用引換券

本券に依り西澤島内各販賣店に於て必要の物品と引換購入することを得るものなり

表面の金額正に相預り本券引換に基隆西澤商店にて現金相渡可申候也

本券の偽造變造に係るものに對しては支拂の義務を有せざるものとす

                                                西澤商店


なお、表面にはオサ鳥が大空を舞う様子が描かれていた。この私紙幣は西澤島が清国に明け渡されてしまった後、台湾総督府博物館に展示されたこともあったという。






西澤島の転機と終焉

西澤島の事業はおおむね順調だったが、転機は突然やってきた。それまではこの孤島にほとんど関心を示すことがなかった清国が領有権を主張し始めたのである。

1909(明治42)年3月、清国は日本に対し、同島の返還を要求してきた。そして、1908(明治41)年2月5日、マカオ沖で日本船第二辰丸が拿捕されるという事件が起きた。これに対し、日本は強硬な姿勢で清国を追究したが、これが民衆の反発を招き、大規模な日貨排斥運動へと発展した。

7ヶ月にわたる折衝が行なわれ、この島は清国領であるということで決着を見る。折からの経済不況に苦しんでいた日本は、清国との関係が悪化することを恐れ、終始弱腰だったという。結果として、清国は西澤の財産に対価を支払い、西澤は島の事業から撤退することになった。

ところで、日清両国間の折衝は西澤島の価値をどう評価するかという点が注目された。日本は実地立会臨検のため、軍艦「明石」を派遣し、これに前後して「音羽」、「鳥海」の二艦を送り込んだ。「明石」の艦長は後に総理大臣となる鈴木貫太郎(当時は大佐)だった。

最終的に、日本側は同島の価値を38万円としたが、清国は13万元という額を譲らなかった。そして、賄賂を要求されたり、税金などを差し引かれたりして、西澤のもとに渡ったのはわずか10万6千円だったという。これは西澤が他界する前日、息子の基一によって筆記された口述覚書によるものだが、島に投じた額は60万円以上と言われており、さらに、浅野セメントや台湾銀行などにも40万円という負債があった。

なお、「音羽」の参謀は秋山真之(さねゆき)だったが、秋山は巨額の負債を背負った西澤を不憫に思ったようで、後日、ドイツ領南洋諸島を占領した際、アンガウル島の燐礦石採掘に西澤を起用するよう、骨折りしている。


清国、そして中華民国統治下の東沙島

1909(明治42)年10月11日、東沙島は清国統治下に入った。しかし、その後の状況は何においても消極的で、芳しいものではなかった。英国香港政庁はここに通信基地を兼ねた気候観測所を置くことを清国に持ちかけたが、清国は自力で行なうとしてこれを拒否。しかし、当時の清国は財政難で、何もできないままに時間だけが過ぎていった。

また、燐礦石の採掘についても、放置状態となり、中華民国成立後、ようやく動きが出るようになったが、西澤島時代のレベルに達することはなかった。それでも、欧米列強からの圧力もあり、気候観測所と無線通信所、灯台については整備された。この海域は暗礁が多く、魔の海域として恐れられていたので、灯台の重要性は高かった。ただし、財政難を理由に点灯されないことも多く、中華民国籍の船が航行する時だけ機能するという状態だった。

一方で、西澤島時代から絶えることなく続けられたのは海人草の採取だった。これは採取の利権を台湾にいる日本人に与え、行なわれていた。ただし、賄賂を要求してきたりすることが頻繁にあり、トラブルは絶えなかったようである。これが日本軍による占領に結びついていった。

1937(昭和12)年9月3日早朝、日本は折からの暴風雨に乗じてこの海域に入り、東沙島に上陸を果たした。そして、中国人を退去させた後、日章旗を掲げ、ここを占領した。つまり、この島は再び、日本の版図に組み込まれたのである。

それから終戦までの8年間については、史料・文献はほとんど残っていない。
 

西澤吉治という人物

西澤は1872(明治5)年8月15日、越前国鯖江藩の蔵役を務めた西澤為治の二男として鯖江に生まれた。若くして父と死別し、母を抱えて極貧の暮らしを強いられたが、苦学して商業学校を卒業。農商務省検査所に入り、ドイツ人技師について伊豆の温泉地帯の地質調査に当たった。しかし、21歳の頃に肺を患い、療養のために八丈島に渡る。ここで一年間ほど療養を行なった。これが後に燐礦石の採鉱夫の確保に繋がっている。

日清戦争が勃発すると、西澤は軍属として各地を巡る。これが台湾との接点となった。1895(明治28)年5月29日、北白川宮能久親王率いる近衛師団は台湾東北部の澳底に上陸し、台南まで行ったが、その後、西澤は基隆に住みついた。

基隆では回漕業を営み、基隆港の港湾内輸送を担っていた。同時に貿易商でもあり、探検家でもあった。

ほどなくして基隆港の築港が始まると、西澤の事業は一気に拡大した。後には浅野セメントの台湾総代理店にもなり、同社に関連した用地の買収なども行なっていた。この頃の西澤商店はまさに「朝日昇天」の勢いだった。

その後、東沙島と出会い、その開発に尽力した西澤だったが、時代の波に呑まれ、わずか3年あまりで西澤島の歴史は幕を下ろした。島を失った西澤は大きな負債を背負い、その後しばらくは神戸や東京を転々としていたという。この頃はラサ島の売却金で生活していたというが、日本海軍がドイツ領南洋諸島を占領するようになると、再び転機が訪れた。

ドイツ領南洋諸島のアンガウル島は東沙島と同様、鳥糞(グアノ)と燐礦石で知られていた。海軍はドイツ人が行なっていた採掘事業を受け継いだが、その業者として白羽の矢が立てられたのが西澤だった。

時の海軍省軍務局長は西澤島の帰属問題で関わりのあった秋山真之。当時、西澤は困窮の極みにあったため、秋山は出資者として実業家の山本条太郎を紹介した。西澤は「南洋経営組合」を組織し、再び八丈島で採鉱夫250名を集め、再起を図ったが、これもシーメンス事件の影響で頓挫してしまう。

西澤の晩年は寂しいものだったようだ。1933(昭和8)年8月31日、伊豆河津村にて波瀾に満ちた人生を終えた。享年62歳。まさに全力疾走を続けた人生だった。

その3に続く・・・




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