片倉佳史の台湾歴史紀行6 東沙島(プラタス島)の歴史 その3

(その2より続く)


現在の東沙島を訪ねる

現在、東沙島は全域が高雄市に属している。これは1939(昭和14)年に南シナ海の島々が日本統治下に入った際に高雄市へ組み込まれたためで、これが戦後に台湾の統治者となった中華民国政府に受け継がれている。

敗戦によって日本は台湾・澎湖地区の領有権と請求権を放棄し、その後の管理が中華民国政府に委ねられたのは周知の事実であろう。これによって、東沙島は広東省に編入され、後に海南特別行政区に属した。そして、1949年以降は高雄市に編入され、現在に至っている。

筆者は台湾政府の計らいで東沙諸島を二度ほど訪問した。この視察は台湾政府が主催したもので、この地が自国の実効統治下にあることを外国メディアを介してアピールするべく企画されたものだった。

最初に訪れたのは2008年7月23日のことだった。これは台湾政府行政院新聞局が主催したプレスツアーで、台湾に駐在する報道関係者55名が東沙島の土を踏んだ。これは外国人として、最初の訪問団となった。


国軍輸送機で東沙を目指す

記者たちが乗りこんだのは物資運搬用のC130型軍用機だった。ロッキード社製で、通称ハーキュリーズ(ヘラクレスの意味)。運用効率の良さと輸送量の大きさから「輸送機の最高傑作」とまで言われる機材である。現在、米軍のほか、イギリス空軍、カナダ空軍、スペイン空軍、そして、日本の航空自衛隊にも導入されている。

座席はいわゆるベンチシートで、窓枠もミニサイズ。そして何より、機内に響く轟音の大きいことに驚いた。台北から東沙までは所要約2時間。台北を出てしばらくは台湾島の西岸を南下し、新竹付近から進路を南西にとる。そして、澎湖諸島上空を過ぎた後はしばらく海上を飛ぶ。

輸送機は定刻に東沙機場(飛行場)に着陸した。滑走路は立派なものだった。この滑走路は、もともと1939(昭和14)年に、日本が整備したものである。当時は有効長600メートルほどだったが、戦後に1550メートルに拡張されたため、往時の痕跡は残っていない。なお、この滑走路は燐鉱石の採掘場跡を整備したものである。








美しい海と手つかずの自然

この日は好天に恵まれ、カメラバックに据え付けてある温度計は32度を示していた。しかし、心地よい風が常に吹き付けており、気温の割には暑さは感じない。

飛行場からはバスに乗って移動したが、その車両は「高雄市公車」と記された高雄の市営バスだった。東沙島は高雄市の管轄下にあり、バス停も高雄市内で見かけるものと同じデザインである。

東沙島は平坦な島で、最高地点でも7メートルの高さである。地図を見ると、東西に約2800メートル、南北に865メートルほどで、中央部には大きなラグーン(潟湖)がある。干潮時の水深は1メートルほどとなっており、静かな水面をたたえている。

島は緑が豊富で、しかも潤いがたっぷりと感じられる熱帯性植物が多い。気候区分としては、熱帯モンスーン気候に属するが、風が常に吹き抜けているためか、過ごしやすい。ただし、台風の襲来は多く、日本統治時代の記録には、島全体が波に洗われるような状況もあったという。

小さな島ではあるが、豊かな自然生態を誇り、鬱蒼と生い茂った森がある。先にも述べたように、林投樹や桑が多く、こういった場所には昆虫が多く棲息している。また、鳥については140種が確認されている。かつてはカツオドリの繁殖地として知られていたが、これは残念ながら、乱獲によって絶滅している。

なお、二度目の東沙訪問となった2010年には桟橋から沖合に出て、環礁の周囲を航行する機会を得られた。透き通った大海原はもちろんだが、座礁して朽ち果てた船の残骸などが遠くに見えた。風浪に晒され、強い日差しに照らされた残骸は海の蒼さの中で鈍く輝いていた。

現在、台湾政府は東沙環礁全域を国家公園(日本の国立公園に相当)に指定している。これは海洋生態の保護を目的としたもので、2007年11月17日に告示が出されている。

これは南シナ海で覇権を狙う中国や、ベトナム、東南アジア各国に向けた台湾の戦略だった。つまり、生態保護を目的とした管理地域を設けることで、戦禍から島を切り離すことを狙ったのである。

南シナ海に海底資源が確認されるや、諸国が権益を主張し始めたのは周知の事実であろう。そして、あからさまな海洋進出を狙う中国にとって、この海域は戦略上、極めて枢要な地位を占める。現在、台湾政府が実効統治しているのは東沙島と南沙諸島最大の面積を誇る太平島のみとなっているが、両者とも南シナ海の要となる存在である。


島に眠っていた日本統治時代の遺物

最後に、この島で最も印象に深く刻まれたことを書き記しておきたい。

筆者は東沙島を訪れた際、ここがかつて日本の統治下に置かれていた事実を証明できるものはないか、探していた。言い換えれば、「日本統治時代の遺構のようなものは残っていないだろうか」と気にしていた。

残念ながら、二度とも自由の利かない取材旅行だったため、個人行動はできず、丹念に探し歩くことはできなかった。構造物についても、滑走路は戦後に改築されているし、測候所は日本人が設けたものだが、すでに建て直されている。家屋や石碑なども存在しない。

それでも、筆者は現地に暮らす人々に会うたびに声をかけ、そういったものが残っていないか、尋ねていた。残念ながら、筆者の期待に応えてくれるような情報は得られなかったが、台北に戻る時間が近づいていた矢先、東沙島の自然生態を案内してくれた現地スタッフが走り寄ってきた。彼は息を切らせながら、おもしろいものがあると言って、手にしたものを差し出した。

 「これは日本のものでしょう?」

そういって、彼は笑顔を見せた。

それはビール瓶であった。そこにはカタカナで「キリンビール」と刻み込まれていた。下には「DAINIPPON」の文字も見える。さらに、「K」と「B」を組み合わせたロゴも入っていた。戦時体制下の1943(昭和18)年、各メーカーの商標は廃止されているので、それ以前のものと推測される。

また、四方に大海原が広がっている島なので、もしかすると、他の土地から流れ着いたものかもしれない。念のため、「このビール瓶はどこにあったのか」と尋ねてみた。すると、測候所に近い建物を改築した際、土中に埋もれていたのだという。それなら、戦前に、この島で飲まれたものと判断してよさそうだ。

筆者を乗せた輸送機は東沙島を離陸した。許可を得て、やや高い位置にある窓から島影を眺めてみた。すると、どこまでも続く青い海と広がっていた。そして、小さな島影が見える。そして、半世紀以上も眠っていた空き瓶が教えてくれた日本との歴史的繋がり。思わぬところで意外な遺物に巡り会い、筆者はもう一度、この島の歴史と西澤吉治に思いを巡らせた。

今後、揺れる政治状況の中で、この島がどのように存在していくのかは定かではない。しかし、美しい海原と手つかずの自然。そして、わずかな時間ではあるが、絡みのあった日本。秘境そのものとも言えるこの島だが、その魅力は決して小さくない。




コメント