片倉佳史の台湾歴史紀行1 基隆その1
台湾の門戸として栄えた港湾都市
基隆(きいるん)は台湾北部に位置する港湾都市である。台湾北部の玄関口で、日本統治時代、台湾に渡ってきた日本人の大半はここで上陸の第一歩を遂げた。そして、1945(昭和20)年、敗戦によって引き揚げる際も、ここが台湾に別れを告げる場所だった。戦前に台湾との関わりをもった日本人であれば、誰もが特別な思いを抱く港である。
町は港とともに発展した。内地と呼ばれていた日本本土との間を結ぶ「内台航路」の発着地として知られたが、同時に、国際交易港としても名を馳せた。その歴史は17世紀に遡るが、本格的な発展を遂げたのは日本統治時代に入ってからであり、築港工事が施された後の話である。
基隆は別名を「雨港」という。この一帯は海上より吹きつける季節風のため、冬場になると、決まって天候が崩れる。町は港湾以外の三方を山に阻まれており、海上で発生した水蒸気は山並みに遮られて雲となり、降雨をもたらす。基隆と台北は距離でいえばわずかに28キロしか離れていないが、基隆で雨が降っていても、台北は晴天ということが少なくない。雨の基隆駅を出た列車が十分もせず、トンネルを抜けるだけで青空を見るということもあるほどだ。
基隆には一つ、定番の笑い話がある。毎年11月頃から翌年3月初旬まで、基隆では毎日のように雨が降る。ある年、元旦に青空が見えた。基隆の元旦と言えば、必ずや雨降りと決まっているので、人々は「珍しいことがあるものだ」と語り合ったという。しかし、翌日からは雨が降り始め、その後、31日まで毎日雨が降ったという。いかにこの地に雨が多いかを物語るエピソードである。
また、台湾の人々は基隆へ向かう友人に対し、「財布を忘れても傘は忘れるな」と声をかけるという。先に述べた「雨港」という呼称については、この時期に基隆を訪れれば、誰もが納得できるに違いない。基隆郊外に位置する暖暖(だんだん)測候所の記録では、年間200日の降雨は珍しくなく、大正時代には一年で300日も雨が降ったこともあったという。
また、降雨の時期は海上も荒れる。古くは降雨期に基隆港に着岸するのは困難とされていた。築港工事が施されるまでは、船体の小さい漁船は港内の航行すら、ままならなかったという。
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| 基隆港の様子。現在も高雄港に次いで貨物取扱量第2位を誇る。軍港としても枢要な存在で、終戦まで市内全域が要塞とされていた。 |
港都・基隆の歴史
「基隆」という地名の由来は興味深い。漢人系住民がやってくるよりも前、この一帯はケタガラン族の人々が群居していたという。ケタガラン族は平埔族(平地原住民)に分類される部族で、台湾北部に居住していた人々である。後に漢人住民との混血を経てアイデンティティを失って現在にいたる。
明国時代の末期、漢人住民が台湾南部から土地を求めて北上してきた。そして、先住の人々と幾多の葛藤を繰り返し、一方では混血をしながら、この地に定住していった。
転機となったのは1626年のことである。この年、フィリピンのルソン島を拠点としていたスペイン人が洋上に現れた。スペインは台湾南部に拠点を得たオランダに対抗し、台湾の東海岸を北上してきてこの地にやってきた。そして、現在は和平島と呼ばれている社寮島に要塞を築き、これをサンサルバドル城と名付けた。小さな漁村は一躍、外国勢力の拠点へと変わったのである。
しかし、キリスト教の布教にも人々の馴化にも失敗したスペインは、わずか16年で台湾から撤退する。そして、オランダも鄭成功によって台湾から駆逐された。その後、18世紀に入った頃からは漢人住民の移住が急増する。中南部の平野部が開墾し尽くされたため、新天地を求めて北上してきたのである。
1840年頃には、この地に戸数700あまりの集落があったという。そして、1857年にアロー号事件が勃発し、翌年6月に清国が英仏をはじめとする欧米列強と天津(てんしん)条約を結んだことで、基隆も世界史の中に組み込まれる。
この条約は広範な外国特権を規定しており、不平等条約の根幹となったことで知られる。ここで安平(あんぴん)と淡水の二港が開かれることとなった。基隆はこの時、副港として打狗(現在の高雄)とともに税関が置かれることになった。
ちなみに、天津条約は締結後に清国が批准を拒否した。そのため、英仏は再度清国に侵攻し、北京を占領。1860年10月、ロシアの仲介によって北京条約が結ばれる。これによって、ようやく天津条約が履行された。そのため、基隆の開港も遅れ、1863年となっている。
その後、1884年にはベトナムの領有を巡って清仏戦争が起きる。同年8月5日、フランス軍はアメデ・クールベ提督率いるフランス極東艦隊を台湾に派遣し、基隆湾を攻撃。沿岸砲台を破壊し、部隊を上陸させたが、劉銘傳率いる部隊が来援し、撤退することになる。
10月1日には再びフランス軍による攻撃が始まり、この時は1800名の兵士が基隆に上陸。しかし、フランス軍は後に淡水にも戦線を広げ、膠着状態が続いた。フランスは年末に打狗(高雄)や安平を海上封鎖し、翌年には戦力増強も実施したが、清国の激しい応戦を受けた。
戦闘は8ヶ月におよんだ。1885年6月9日に締結された天津条約(李・パトノール条約。先述の天津条約とは別のもの)によって休戦になるまで、澎湖諸島がフランスに占領され、基隆も1885年7月までフランスの攻略を受けた。
なお、この間、疫病に倒れる兵士が続出した。提督のクールベ自身もマラリアに罹患し、1885年6月11日、停戦合意がなされた直後に病死している。基隆には戦病死者を埋葬した墓地が設けられ、日本統治時代は史跡の扱いを受けていた。現在も墓地は残されている。
「基隆」を日本語でどう読むか?
1869年には「鶏籠」の表記が「基隆」と改められている。現在も基隆はホーロー語(台湾語)では「鶏籠」の漢字表記に従い、「ケーラン」と発音される。なお、「基隆」とは、「基地隆昌」という言葉にちなんだもので、この時点で、すでに軍事色が強い町だったことがうかがい知れる。
「基隆」の表記が日本統治時代、何と読まれていたかというのも興味深い。終戦まで、基隆は「きいるん」と呼ばれていた。戦前の台湾の地名は「蕃地」と呼ばれた原住民族の居住地域以外、漢字表記を日本語の音読みに従って読むのが通例だった。ここはその中で数少ない例外となっていた。基隆は天津条約での国際登記が「KEELUNG」となっており、清国統治時代からこの名が定着していた。そのため、日本統治時代に入った後も「きいるん」とされたのである。
余談ながら、台湾にはもう一つ、特別な読み方をした地名がある。それは台湾南部の安平で、これは「あんぴん」と呼ばれていた。ここは歴史ある港町で、古くは鄭成功の時代から日本と関わりがあった。そのため、現地で使用されていたホーロー語(台湾語)の「あんぴん」の発音が継承された。
日本統治時代、基隆築港が始まった
基隆と日本は古くは倭寇(わこう)の時代より接点があったと言われる。しかし、統治者としての日本は1895(明治28)年6月2日に最初の接触をしている。初代台湾総督の樺山資紀(かばやますけのり)はこの日、基隆沖で清国全権委員の李経芳と台湾授受の会見を行なっている。調印式は横浜丸の船上で行なわれ、この時、台湾は日本の統治下に入った。
その後、小さな漁村に過ぎなかった基隆は順調な成長を遂げていく。その勢いは興隆の一途をたどったと言ってもいいほどである。しかし、その発展を支えたのは港の存在だった。
基隆湾はもともと天然の良港と言えるもので、手つかずの状態でも港の機能は有していた。しかし、日本統治時代に計画された港湾規模は大きく、工事も大がかりなものとなった。ちょうどこの頃は、台北の外港だった淡水港が土砂の堆積で港湾機能を失いかけていた時期に一致する。基隆港に寄せられる期待は大きかった。
築港は1899(明治32)年に始まった。完成を急ぐため、工事は昼夜を徹して進められたという。なお、この工事には治水事業や橋梁建設で台湾に大きな功績を残した十川嘉太郎が絡んでいる。
そして、港湾の完成を待たずに基隆は軍港となり、重要性を増していった。その後、終戦まで、一貫して付近一帯は要塞地区とされた。撮影はもちろん、写生ですら禁止されるという状態になった。そんな状況もあり、開かれた町ではなかったが、その活気は特筆に値するものだった。各地に向けて連絡船が就航し、港付近は終日人影が絶えなかったと言われている。
その後、基隆港は台湾の門戸として、重要な役割を担っていく。大正時代を迎える頃、すでに港は東西に655メートル、南北に1091メートルの規模となっており、大型船舶の航行はほとんど問題が起こらなかったという。ちなみに当時、3000トン級の汽船なら35隻が停泊できたと言われている。その後も、拡張工事は続けられ、機能性の高い港として発達して知られていくこととなった。
なお、築港工事には当然、技師と多くの作業員が必要となる。総督府は技師を日本から呼び寄せ、労働者は各地から人を集めた。1930(昭和5)年末の統計によると、基隆の人口は8万7400人となっている。そのうちの約2万人は内地人が占めたという。ここで注目したいのは常時5千人を数えた外国人の存在である。その大半は日本国籍を得られなかった福州系中国人(福州人)で、主に港湾労働者として基隆に住んでいた。また、温州(うんしゅう)人も多く見られた。
→以下、その2に続く
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| 港湾とともに発達した基隆。1924(大正13)年には高雄とともに市制が施行されている。現在は約37万の人口を誇る。 |


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