片倉佳史の台湾歴史紀行2 南沙諸島(スプラトリー諸島)の歴史 その1
アジアの火種となった旧日本領の島
南沙諸島(英名・スプラトリー諸島)は終戦まで新南(しんなん)群島と呼ばれていた。台湾の南端からさらに南へ約1300キロ進んだ先にある島々である。現在は海底油田の存在が確認されており、中国をはじめ、領有権を主張する複数の国家間の係争地域となっている。
この海域は終戦まで、日本の統治下にあった。高雄市が管轄し、長島(ながしま)を中心に、北二子(きたふたご)島、南二子(みなみふたご)島、西青(にしあお)島、三角(さんかく)島、中小(なかこ)島、亀甲(きっこう)島、南洋(なんよう)島、北小(きたこ)島、南小(みなみこ)島、飛鳥(あすか)島、西鳥(にしとり)島、丸(まる)島などで構成されていた(※1)。
このうち、長島は群島内最大の面積を誇っており、現在は太平島と呼ばれている。中華民国政府が実効統治している唯一の島で、警備隊が常駐している。
また、西鳥島は現在、ベトナムが実効統治している。ベトナム語では「チュオンサ」、中国語表記は「南威島」となっているが、この島の英語名は「Spratly Island」で、「スプラトリー諸島」の呼称はここから来ている。
※1 比較的大きな島は長島のほか、三角島、南二子島、北二子島、西鳥島の五島。長島と三角島には井戸があり、真水を得ることができた。三角島については水を貯え、船に給水を施していたという。
豊富な漁業資源と燐礦石
この海域は長らく無主の状態となっていた。ただし、魚介類は豊富で、カツオやマグロ、トビウオなどのほか、アオウミガメやボタンの材料となる高瀬貝(サラサバテイラ)などが知られていた。小舟に乗った漁民たちは自由に出入りしていたが、岩礁が多く、大型船が航行するのは困難を極めた。実際に座礁する船は多く、「魔の海域」となっていた。
そういった状況に変化が現れるのは、日本人が燐礦石(りんこうせき)の存在を知ってからである。燐礦石は燐酸肥料の原料となるもので重宝されていた。この海域の島々には、海鳥の糞が堆積し、化石化した「グアノ」と燐礦石が豊富に見られたのである。
日本人が進出するようになったのは大正期である。その嚆矢となったのは平田末治(ひらだすえじ)が西沙島踏査の際に立ち寄ったこととされるが、これについては異説が存在している。
正式な調査は1918(大正7)年末に実施された。ラサ島燐礦株式会社(後のラサ工業株式会社)がこの海域の調査を実施し、その後、群島への進出を決めた。
1921(大正10)年6月にラサ島燐礦株式会社は長島、1923(大正12)年からは南二子島で燐礦石の採掘に着手した。同社は100万円という巨費を投じたが、経済不況のあおりを受け、撤退することとなった。ここで一旦、空白の時間が生まれるが、その後、開洋興業株式会社が開発を引き継ぐことになる。
大正期に始まる日本人の進出
1918(大正7)年11月23日、ラサ島燐礦株式会社は平田末治の報告書をもとに、探検船「報效丸」を仕立て、東京の月島を出帆した。乗組員は10名で、途中、沖縄で10名の漁夫を雇って総勢20名。隊長は予備海軍中佐の小倉卯之助(うのすけ)だった。
小倉は後に台湾総督となる小林躋造(せいぞう)と同窓で、当時、海軍省にいた小林からラサ島燐礦株式会社(当時は合資会社)の創設者である恒藤規隆(つねとうのりたか)を紹介される。そして、南洋探検の話を持ちかけられた。この恒藤は後に新南群島の命名者となった人物である。
しかし、この頃は船を探すことがとても困難だった。結局、隅田川の河口で廃船同様の状態だった船を使用することになった。これは「報效丸」といい、千島列島の探検と開発で知られる郡司成忠(ぐんじしげただ)が主宰した報效義会の船だった。老朽船であるばかりか、補助機関のない、とても簡素な帆船だった。
一行は途中、沖縄と高雄に寄港して、12月26日午後に北二子島に到達したが、暴風雨に見舞われてしまい、島には到底近づけなかったという。上陸できたのは30日になってからだった(※2)。
北二子島には燐礦石が見られなかったが、年が明けて元旦に西隣りの南二子島に上陸したところ、ここには夥しい数の海鳥が群棲していた。グアノも見られ、豊富な燐礦石が発見できた。その後、1月8日には西青島に上陸。この辺りは暗礁が多く、この島には、付近で難破した船名にちなみ、ウエストヨーク島という名が付いていた。
1月10日、小倉はここに「占有本島 大日本帝国帆船報效丸乗員一同」と記した木標を立てた。なお、一行はこの島を無人島と思っていたが、漢人の漁夫3名に会っている。彼らは海鼠(なまこ)や高瀬貝を採っていたという。
その後はチチュ島(後の三角島)、イトゥアバ島(同じく長島。現・太平島)などに寄り、二ヶ月にわたって調査を行なった。その後、ラサ島燐礦株式会社は1920(大正9)年11月15日に第二次、1923(大正12)年7月1日に第三次の探検隊を派遣している。
なお、小倉卯之助はこの探検時、62歳という高齢だったこともあり、帰還後、多くの新聞や雑誌が彼を訪ね、その顛末が広く報道されることになった。また、小倉自身が詳細な航海日誌を記しており、これは新南群島に関する最初の記録となった。当時はまだ新南群島という呼称がなかったため、『南洋探検記』とされた。
余談ながら、第三次探検隊の隊長を務めたのは海軍中佐の副島村八だった。副島は出帆の間際に夫人から朝顔の種を渡されたという。新南群島訪問の記録や文献には、「島には朝顔が咲き乱れていた」という記述をよく見かける。私自身、東沙島を取材した際には確かに朝顔を数多く見かけた。これは副島隊長が持ち込んだ種子が定着したものなのだろうか。興味が尽きないところである。
※2 新南群島までは高雄から約5日を要した。群島の最北端となる北二子島は環礁の上に二つの丘が見えるということで北二子島、南二子島の名が付いた。北二子島は緑に覆われ、後には漁船の給水基地になった。
新南群島~当時の暮らしぶり
ラサ島燐礦株式会社は1921(大正10)年10月から長島で、12月からは南二子島で燐礦石の採掘を始めた。これが新南群島における日本人最初の事業となった。
一時は200名もの採掘作業員が長島に暮らし、宿舎や桟橋、井戸、トロッコ軌道などが設けられていた。沿岸部には台湾から持ち込まれたパパイヤやパイナップル、バナナなどのほか、乾燥に強い瓜類が植えられていた。特にパパイヤに関しては、台湾より持ち込まれた直後から急速に増え、島内にくまなく見られるようになったと伝えられる。
1944(昭和19)年に発行された雑誌『台湾時報』には興味深いエピソードが記されている。島の暮らしはいたって平和だが、海鳥の大群が四六時中鳴きわめいて賑やかだったこと、そして、野鼠が多く、しかも兔のように大きな体躯だったという。
これは漢人の船に紛れ込んでこの島に棲みついたものと推測されるが、その駆除に猫を持ち込んだところ、あまりにもご馳走が多かったためか、猫が一年に4度も子を産み、鼠の島が猫の島になってしまったという逸話も残る。また、猛獣の類はいないが、サソリがおり、何人かが命を落としたなど、こちらも興味が尽きない。
また、この島はアオウミガメの産卵地でもあり、5月から6月にかけて上陸する。人々はアオウミガメの肉も食したそうで、すき焼きや味噌煮にしていたという。そして、夜には南十字星を眺めながら、南国情緒を楽しんだという。当時はすでに台湾から持ち込まれた椰子の樹が定着していた。
住民は健康維持にとても気を遣っていたという。島に来れば、誰もが下痢に苦しむが、それ以上に、この島ではかすり傷でもすぐに化膿するので注意が必要だった。一方で、蚊が棲息しないため、マラリアは存在しなかったことも特筆される。
しかし、繁栄は長く続かなかった。1920(大正9)年、第一次世界大戦後の恐慌の中で、ラサ島燐礦株式会社の業績は悪化。燐礦石を原料としていた肥料の価格も暴落し、同社は1929(昭和4)年4月、ついに撤退を強いられた。施設を残したままの状態で、職員たちは本土に引き揚げていった。
その後、事業は台湾の開洋興業株式会社に受け継がれた。同社を率いるのは実業家の平田末治だった。彼もまた、長島に拠点を置き、採掘事業を続けた。
(後編に続く)
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