片倉佳史の台湾歴史紀行1 基隆その2



(その1より続く)

築港とともに整備された家並み

基隆の町並みは築港工事と並行して整備された。最初の都市計画は1900(明治33)年に立てられている。基隆は日本の統治下に入った頃には、すでに北部でも指折りの賑わいを誇っていたというが、総督府は行政主導の都市整備を計画し、町作りを始めた。この時、道路は港湾に並行するか、もしくは垂直に交わるように整備された。つまり、港湾を中心として碁盤の目状の町並みが形成されたのである。その美しさは台湾随一とも言われた。

さらに1907(明治40)年の都市計画では整然とした道路配置がより確固たるものとなった。この時には主要道路に沿った家屋が赤煉瓦建築で統一されたという。これらは正面上部に装飾を施した美しい建物で、現在もその一部が残っている。美しい景観を誇る商店街は瀟洒な雰囲気をまとい、基隆の自慢となっていた。

家並みは台湾随一の都市景観とされ、1927(昭和2)年8月27日に台湾日日新報社が決定した「台湾八景」にも選出されている。これは港湾と家並みを高台から見おろしたこの町の様子で、高台は旭が丘と呼ばれていた。後述するが、現在は蒋介石にちなんで中正公園と名付けられている。

しかし、整備が行き届いた町並みも、その美しさゆえ、戦時中は空襲の被害を大きく受けた。南部の高雄、そして澎湖島の馬公とともに軍事要塞とされていた基隆は、連日のように米軍機による空襲に晒された。被害は大きく、家並みはひどく荒廃した。









基隆市歌(作曲・一條慎三郎 作詞・加藤春城)



天然なせる良港に 人の工(たくみ)の加りて
高砂島の関門と その名もしるく朝夕に
千船百船(ちふねももふね)入り集ふ 恵みゆたけき我が基隆(きいるん)市

二、

陸に百貨のつどひ来て 海に無尽の宝あり
朝(あした)汽笛の音にさめ 夕櫓かいの義を太く
平和の潮(うしお)漲りて 生気あふるる我が基隆(きいるん)市

三、

旭ヶ岡に燦爛と 希望の光照すとき
かたみに睦びおのがじし 日々の勤めにはげみなば
自治の礎(いしずえ)ここになり 永久(とわ)に栄えん我が基隆(きいるん)市



無秩序な開発が進んだ戦後

終戦後、日本は台湾の領有権を放棄し、この地を去った。その後、中華民国国民党政府が新たな統治者として君臨するようになると、基隆も変容を強いられた。

基隆は国民党軍の上陸地となった。言い換えるなら、台湾の人々が最初に中華民国の実態を目の当たりにした場所である。そして、1947年の228事件についても、ここは蒋介石が送り込んだ増援部隊が上陸した場所となった。228事件とその後に続いた白色テロについてはここでは記さないが、市街地はもちろん、郊外の八堵(はっと)でも大規模な虐殺事件が起こるなど、悲劇が繰り返された。さらに、住む家を持たない下級兵士たちによって空き地という空き地に不法家屋が建てられ、管理者がいなくなった公園や神社の神苑もバラックで埋め尽くされた。

現在、基隆を訪れてみると、慢性化した交通渋滞が目立つ。無秩序に建物が並び、活気はあるものの、ひどく雑然とした印象だ。これが基隆の戦後の姿である。もともと、市街地の面積は小さく、しかも、無計画な開発が進んで住環境は悪化した。

さらに、急激に増えた自動車によって道路は埋め尽くされ、市街地ではどこに行っても車の流れが悪い。苦肉の策で一方通行を多くしてはいるものの、それはまさに焼け石に水といった状態だ。今や町全体が排気ガスにまみれ、くすんだ町になり果ててしまった。

それでも、港町ならではの風情は色濃く残り、個性が感じられるのも確かである。最近は景観美化に力を入れており、公園の整備や建築物のライトアップ、港湾巡りのフェリーの就航など、観光都市への転身を模索している。


日本統治時代の基隆~小基隆と大基隆

基隆の市街地は港湾を挟んで「大基隆(だいきいるん)」と「小基隆(しょうきいるん)」に分かれていた。基隆駅のある側が「小基隆」で、こちらは駅を中心に、船会社や旅館、運送会社などが集まっていた。

これに対し、「大基隆」は基隆発祥の地で、本島人居住者が多かった。田寮(でんりょう)運河を挟む形で南岸に元町、玉田(ぎょくでん)町、双葉(ふたば)町、天神町などがあり、北岸に寿町、幸町などがあった。大正期以降になると、義重(ぎじゅう)町や日新(にっしん)町、真砂(まさご)町のあたりが内地人商業地区として発達するようになり、義重町通りが目抜き通りとなった。

基隆駅の脇には倉庫が並び、基隆税関の前を第1号岸壁とし、北に第18号岸壁まであった。その距離は4キロにおよび、貨物線が基隆駅との間を結んでいた。また、基隆駅付近は終戦まで明治町と呼ばれていたが、岸壁に沿って、大正町、昭和町と市街地が伸びていった経緯が見える。まさに港とともに発展した町であった。昭和町とその先の仙洞町は新興開発地となっていた。

基隆駅は縦貫鉄道の起点であり、同時に宜蘭(ぎらん)や羅東(らとう)、蘇澳(すおう)方面に向かう交通の要衝だった。近隣地域へはバスや手押し台車(トロッコ)による輸送が行なわれており、駅は終日賑わっていた。

漁業基地としても基隆は枢要な地位を占めていた。終戦時、基隆の漁獲高は全台湾の3割以上を占めていたと言われ、水産加工業のほか、かつおぶしの製造工場などがあった。さらに珊瑚も基隆の特産品として知られ、内外にその名が知れわたっていた。

また、台湾北東部には広域にわたる鉱床が存在する。基隆はその積み出し港としても機能していた。基隆近郊にも炭鉱が数多くあり、瑞芳(ずいほう)や四脚亭(しきゃくてい)など、基隆川(現・基隆河)に沿って、無数の採掘場が連なっていた。これらは貨物列車によって基隆に運ばれることが多かったが、四脚亭炭鉱からは一部、索道を用いて田寮運河に運ばれるものもあった。
 

蓬莱丸の出航風景。日本本土との間には「内台航路」と呼ばれる連絡船が就航していた。終戦時、基隆には18の埠頭があった。



港湾都市・基隆を散策

散策の拠点となる基隆駅は清国統治時代末期の1891年、劉銘伝が台湾巡撫(知事)を務めた時代に設けられた。台湾で最初に敷設された鉄道の起点駅であった。

日本統治時代の基隆駅は瀟洒な雰囲気をまとっており、台湾を代表する名駅舎と謳われた。その姿は絵葉書にもなっていたほどだったが、老朽化を理由に1967年に建て直されてしまった。その駅舎も2015年に建て替えられ、現在は往時の面影を感じ取ることはできない。

基隆駅前には蒋介石の銅像が立っている。終戦まで、ここには初代台湾総督の樺山資紀の像があった。銅像は蒋介石のものにすり替えられたが、台座は日本統治時代のものが今も残る。なお、この蒋介石像は雨の町らしく、レインコートを羽織っている。

駅舎を背にして左手には基隆市営バスの乗り場があり、市内各所へ向けてバスが発着している。この乗り場の建物にも注目したい。駅からは建物の背部が見えるだけで、建物の正面は港に面している。ここは陽明海運という海運会社が所有者となっているが、かつては日本郵船の基隆出張所であった。

その隣には海関大楼という建物がある。ここは日本統治時代の基隆税関合同庁舎である。5階建ての建物で、竣工は1934(昭和9)年。昭和初期に流行したモダニズム建築を踏襲し、水平曲線を駆使して優美さを演出している。現在も税関庁舎として使用されている。かつて船が基隆港に着くと、乗客はここで下船の手続きを済ませて駅へと向かった。そして、終戦時に台湾から引き揚げた内地人もこの建物を通って台湾を離れた。そんな人々の記憶の中に、この建物はどのような印象を残しているのだろうか。



町と港を見おろす公園と神社

基隆にも神社は設けられていた。高台に鎮座し、家並みと運河を見おろせる場所であった。

基隆市政府(市役所)は日本統治時代に建てられた庁舎が今も使用されている。竣工は1932(昭和7)年3月23日。装飾を排したシンプルなデザインだ。これは昭和時代に入った頃の官庁建築によく見られたスタイルで、鉄筋コンクリート造りの堅牢な建物である。基隆神社はここから近い場所にあった。

基隆市役所の右隣りには基隆公会堂があったが現存しない。そして、運河を挟んだ先には瀟洒なことで知られた基隆郵便局があった。こちらも戦後に改築されてしまい、古写真と人々の記憶の中にその姿を留めるだけになっているが、以前は基隆駅と並ぶ名建築とされていた。運河の水面に映える赤煉瓦造りの建物はひときわ目立っていたという。

神社は現在、基隆忠烈祠となっている。鳥居は壊され、中華式の装飾を施したゲートが入口に見える。石段は残っているものの、すでに再整備されており、当時のものではない。

基隆神社の鎮座は1912(明治45)年3月9日。祭神には天照皇大神、大国魂命、大己貴命、少彦名命、大物主命、崇徳天皇、そして、1895年に台南で客死した北白川宮能久親王を祀っていた。

石段を上っていくと、小さな広場がある。中央には蒋介石の銅像があり、家並みを見おろしている。忠烈祠は中華民国のために命を捧げた兵士を祀っている。神社の痕跡としては一対の狛犬と石灯籠が残るのみだが、その配列は神社時代のままである。本殿と拝殿はすでになく、そこには忠烈祠の社殿が建てられている。

なお、神苑はかつて旭が丘公園と呼ばれていたが、現在は中正公園という呼称になっている。ここからの眺めは戦前から知られ、基隆の家並みと港が一望できる。すべての道路は路地のように狭く、隙間はぎっしりと建物が埋め尽くしている。活気は感じられるものの、かなり雑然とした印象だ。これが基隆の現実である。


















夜市に見る風土文化

基隆の夜市(ナイトマーケット)についても紹介しておきたい。ここは「廟口夜市」という名で親しまれ、常設の夜市である。基隆駅から繁華街を抜けて10分ほどなので、ぜひとも訪れてみたい。基隆の町は雑然としているが、ここを歩いていると、それもまた、この町の個性であるように思えてくる。ぎっしりと並んだ建物の間に、突如歴史ある古刹が現れたりするので、散策は楽しい。

廟口夜市は台湾の中でも種類が豊富な屋台街として知られ、味自慢の老舗が集まっている。港町らしく、海鮮を扱った屋台が多いのが特色だ。

名物はいくつかあるが、台湾の人々に人気があるのは「甜不辣(てんぷら)」と呼ばれる揚げ物。これはサツマ揚げのことだが、日本統治時代に九州出身者によってもたらされたものである。サメのすり身を用いて、高温の油でさっと揚げる。これに台湾ではよく用いられる甜辣醤(甘辛いケチャップ)を付けて食べる。現在は台湾各地で賞味できる定番の屋台料理で、ここ廟口夜市が台湾における元祖とされる。

ただ、残念なことがないわけでもない。1990年代後半から、台北市を中心に、夜市の衛生事情を改善しようとする動きが強くなった。もちろん、このこと自体は旅行者にとっては嬉しいことだが、そういった中、夜市ならではの風情というものは確実に消えつつある。

もともと、台湾の夜市は門前市の性格が強く、必ずと言っていいほど廟がある。その廟の参拝客を目当てに集まった屋台によって構成されている。当然ながら雑多な雰囲気が生み出され、これが風情となっていたが、再整備が進む中で、屋台の看板を統一したデザインにしたり、店員がお揃いの衣服を着たりしている。昔ながらの風情を味わうのなら、訪問は早いほうがいいかもしれない。














地方都市における美食探索

 筆者はこれまで、何冊かの旅行ガイドブックを執筆してきたが、基隆をはじめとする地方都市の食事情をどのように紹介するかについては常に悩まされている。どのような場所をオススメとして取りあげるか、その選定が難しいのである。

台湾の食文化の奥深さは広く知られているが、台北や高雄、台中といった都市を除くと、店構えがしっかりとしたツーリスト向けのレストランは多くない。しかも、あったとしても味の面で推薦できるかどうかは別問題である。基隆の場合も高級レストランと呼べそうなものはホテルに入っていることが多く、こういったところでは郷土の味覚や基隆ならではのご当地料理に出会える確率は低い。

台湾におけるグルメの神髄は屋台料理をはじめとする庶民の味覚にある。実際に、台湾の地方都市におけるグルメ散策は庶民料理が基本となり、あくまでも街角の食堂や屋台で楽しむものである。

基隆の人々はやってきた友人をどういった店に連れていくかで親しみの度合いが分かるというエピソードもある。言うまでもなく、親しみが増せば増すほど、地元色の強い庶民派食堂へ連れて行くのである。

往々にして、台湾の地方都市では公的な会合やビジネス上での接待を除くと高級レストランで宴席の場を設けることは少ない。多くの場合、夜市や町市場に併設された屋台街に連れていき、その町ならではのご当地料理を食べさせてくれるだろう。地方都市を訪ねる際には、こういった郷土料理の類を存分に楽しみたいものである。

港とともに開かれ、港とともに発展してきた基隆。「全台湾の門戸」と称された頃の賑わいはないものの、独特な風情を楽しむことができる港町である。観光都市への脱皮をも図りつつあるこの町をじっくりと訪ねてみよう。



































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