片倉佳史の台湾歴史紀行2 南沙諸島(スプラトリー諸島)の歴史 その2
(前編より続く)
フランス軍との接触
ラサ島燐礦株式会社の撤退と平田末治率いる開洋興業株式会社による再出発。その間には5年あまりの空白がある。そこを衝くように、フランスがこの海域に介入してきた。1933(昭和8)年、安全航行のためと称し、フランスが軍艦を派遣し、海域の主権を主張してきたのである。
フランスは北二子島を皮切りに領土石を設けていった。これは「先占」を誇示することを目的とした標柱である。通報艦アレルト号が立ち寄った順に設けられ、最初の北二子島の領土石には1933年4月10日と刻まれた。
フランスは同年7月25日に一帯の7島、つまり、長島(イトゥアバ島)、丸島(アンボアン島)、西鳥島(スプラトリー島)、北と南の両二子島(ドゥジュール島)、中小島(ロアイタ島)、三角島(チチュ島)の各島と、その周辺の岩礁を自国領と宣言した。
これは軍事行動を伴ったものではなく、単なる領有宣言だったと判断できるが、ラサ島燐礦株式会社の撤退で管理者がいなくなった島々に対し、フランスが領土獲得の野心を抱いているということで、日本国内には衝撃が走った。
南シナ海はインドシナを治めるフランス以外にも、フィリピンを治めるアメリカやマレーシアやボルネオ島を治めるイギリスなど、列強の利害が交錯していた。その後、日本とフランス、そして、強い姿勢を見せることはなかったが、やはり領有権を主張する中華民国の三国間で外交戦が展開されることとなる。
8月19日、日本はフランスの一方的な振る舞いに対し、抗議した。そして、長年無主だったこの島を最初に治めたのは日本人だったこと、自国民が巨費を投じてその開発に当たってきたことを理由に、自国の領有権を主張した。フランスはこれに対し、「民間企業が行なった私的経営は国際法上の先占の概念には含まれない」と反論。産業上の権益は認めるとしながらも、領有権は譲らず、交渉は平行線をたどっていた。
この時、大阪毎日新聞社は自社で船を仕立て、記者二人を特派員として新南群島へ送った。そして、ラサ島燐礦株式会社が撤退し、遺棄された施設などが詳細に記録され、報道された。記事以外にも、同社は9月に『新南群島探検記』という写真集を発行した。これは貴重なカットが豊富に掲載されており、話題となった。
フランスは具体的な行動に出ることはなく、軍事的な衝突もなかったが、西沙諸島に対しても軍艦を派遣し、日本の動きを牽制していた。それでも、交渉は進まず、未解決のまま、時間だけが過ぎていった。
その後、1938(昭和13)年8月10日、日本はコンクリート製の帝国先占碑を建ててフランスに対抗した。そして、1939(昭和14)年3月30日、日本は公示をもって新南群島の領有を宣言した。翌日17時に外務省はこれを発表し、外務次官の澤田廉三(さわだれんぞう)がフランス政府に通告した。島々と海域は4月18日付けで高雄市の管轄下に入った。
1939(昭和14)年3月31日には高雄神社で新南群島市域編入奉告祭が挙行されている。なお、この領土編入により、日本の最南端(有人地域)は台湾の鵝鑾鼻ではなく、北緯7度の新南群島となり、最西端は東経111度55分55秒の西鳥島となった。
日本編入後の新南群島経営
フランスの「野心」に触れ、日本は南シナ海の拠点としての新南群島の存在意義を再確認するに到った。
ラサ島燐礦株式会社の撤退によって、一度は遺棄された新南群島だったが、ここに平田末治が進出を決める。平田は1935(昭和10)年の春に開洋興業株式会社を設立。資本金は50万円。社長職に就いたのは盬水港製糖株式会社の槇哲社長で、平田自身は専務取締役となっている。
開洋興業株式会社はフランスの動きを強く意識していた。同社は台湾総督府と海軍の後ろ盾を得て、積極的に事業を展開していった。その内容は漁船の救助や漁場の監視、気候観測、通信事業といった公益事業を主軸に置いている。しかし、燐礦石の採掘、そして、豊富な漁業資源の管理という部分が大きかったことは疑いはない。
同社は広大な南シナ海を漁場とし、その中枢として新南群島を捉えていた。この海域ではマグロやカツオ、海亀類などが豊富に獲れた。中でも高雄に本社を構える拓洋水産会社は台湾拓殖会社の関連企業だったが、20トン級のマグロ漁船10隻をもって、南シナ海への漁業進出を目論んでいた。
港湾整備は急務とされ、大規模な築港工事が計画された。文献がなく、詳細を知ることはできないが、水深は干潮水面から3メートル、漁船120隻を収容できる規模が望ましいとされていた。
燐礦石の採掘については、開洋興業株式会社から南洋興発株式会社に移管され、長島、南二子島、三角島の採掘権はこちらに移った。同社は南洋方面で手広く事業を展開していた国策会社で、燐礦石についても、すでにサイパンやロタ、ペリリュー、トコペ(トビ)の4つの拠点を持っていた。
台湾総督府も肥料規則を改正し、新南群島と西沙群島(平田群島)に特例を敷いた。当時、グアノは肥料取締法が認める水溶性燐酸でないことを理由に、加工せずに販売することが禁止されていたが、これを見直すというものだった。これにより、南方資源開発の活性化が促進された。
幻に終わった漁業都市計画
長島は新南群島の拠点として整備された。1939(昭和14)年には長島に都市計画が立てられている。もともと無人島になぜ「都市」計画なのか、誰もが不思議に思うだろう。これは燐礦石資源が枯渇した後、ここに南シナ海の漁業基地を作るというものだった。
この計画は中央部の4~5万坪の土地を整備するものだった。そこには冷蔵庫や製氷所、水産加工場、漁具庫、漁船修理工場を設ける。さらに、共同浴場や病院、社員クラブ、運動場まで設ける計画だった。
戦況の悪化で、これらの計画は完成しなかったが、住宅や気候観測所のほか、ラサ神社と呼ばれる神社などは整備されていたし、日本が設けた波止場の痕跡は現在も残っているという。そのほかにも、給油施設、通信所、医療施設などは稼働していた。
この計画は3~4千人程度の人口を想定していたと言われる。面積から考えても、にわかに信じがたい人数だが、1940(昭和15)年、台湾総督府はこの計画に対して予算を計上している。実際に水産業関連の部分については拓洋水産株式会社が、鉱業に関する部分については南洋興発株式会社が資金を投じて整備に当たっていた。
新南群島から南沙諸島へ
第二次世界大戦が終結すると、新南群島を取り巻く環境は一変する。敗戦国となった日本は台湾および澎湖地区の領有権を放棄したが、新南群島、西沙諸島、東沙島についても同様に、日本の統治下から離れていった。
1951年9月8日、日本は連合国との間に「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」を結んでいる。その第二章「領域」の第2条(f)の項に「新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権限及び請求権の放棄」が記されているが、同条約第2条(b)の「台湾及び澎湖諸島」と同様、具体的に新たな帰属先は明記されていない。これを受け、フランスと中華民国は新南群島に日本が残した施設を接収することに躍起となり、これがきっかけとなって、現在にも続く領土紛争の火ぶたが切られた。
中華民国は新南、西沙、東沙の3群島に「南海諸島」という呼称を与え、1947 年にその領有を発表している。後に成立した中華人民共和国は1950 年に同じく南海諸島の領有を発表している。また、ベトナム国(当時。サイゴン政府)も領有権を主張した。
戦後、長島は中華民国政府によって「太平島」と名付けられた。これは1946年10月5日、戦後の混乱期に乗じてフランスが西鳥島と長島に上陸するという事件が起こり、中華民国はこれに抗議。帰属についての協議が実施されることになったが、第一次インドシナ戦争の影響を受け、フランスは会談を放棄した。中華民国は中業号、永興号、太平号、中建号という4隻の軍艦を長島に向け、広州を出たこれらの軍艦は西沙を経由し、12月12日、南沙に到った。
この時、長島の接収に当たったのが太平号と中業号で、その名にちなみ、太平島の呼称が付せられることとなった。同時に日本統治時代の呼称である新南群島の名も使用されなくなり、「南沙諸島」、もしくは英語で「スプラトリー諸島」となった。
太平島は諸島内で最大の面積を誇り、面積は0・51平方キロメートルで、東西に1289・3メートル、南北に365・7メートルと、楕円形をしている。海抜は高い所でも6メートルほどである。
この島は長らく中華民国海軍の管理下にあったが、2000年1月に政府内に海岸巡防署(海上保安庁に相当)が設けられると、こちらに移管された。行政区画としては高雄市旗津区中興里に属している。台湾政府が実効統治する群島内唯一の島であり、海軍陸戦隊と海岸巡防署が人員を常駐させている。
長らく閉ざされた島ではあったが、2016年3月23日に台湾政府は一部の海外メディアを招き、島内の様子が紹介された。なお、この島は欧米では「Itu Aba Island」と呼ばれている。これは「あれは何ですか?」という意味のマレー語で、国際的な呼称としてはこちらが定着している。
太平島は「島」か「岩礁」か
現在、この海域は台湾(中華民国)や中国だけでなく、ベトナムやフィリピン、マレーシア、そして、派兵行動はしていないものの、ブルネイも領有権を主張している。南沙諸島という表現も、中国語であり、フィリピンはカラヤアン諸島、ベトナムはチュオンサ諸島と呼称が異なるため、国際社会では英語名のスプラトリー諸島という表現が広く用いられている。
この中で、南沙諸島最大の面積を誇る太平島を実効統治するのが台湾(中華民国)である。現在、台湾政府が実効統治するのは太平島の一島のみだが、その意義は大きなものがある(※1)。それはここが群島内で唯一、人間が暮らすことのできる島だからである。
2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、フィリピンが提訴していた中華人民共和国による南シナ海の領有権主張や人工島の建設が国際法に違反するという案件に対し、中国の主張には法的根拠がないという判断を示した。同時に、人工島は排他的経済水域や大陸棚が認められる「島」ではないと判断を示した。
中国はこれを当然のようにはねつけたが、ここに見落としてはならない問題点がある。フィリピン政府が南沙諸島の島々を、「島」ではなく「岩礁」、「環礁」としていたことである。
これについては、馬英九総統(当時)が2016年3月23日、記者会見で触れている。その内容は、太平島は人間が居住でき、独自の経済生活を維持できるという条件を満たしており、『国連海洋法条約』の第121条、「島嶼」の定義に合致しているというものだった。同時に、太平島の主権は中華民国にあり、12海里の領海・領空のほか、200海里の排他的経済水域(EEZ)と大陸棚を主張する権利があるというものだった。
※3
厳密には太平島の沖合2・5キロの地点に中洲礁があり、ここも中華民国が実効統治しているが、管理はされていない。
人間が暮らせる島、農業ができる島
台湾政府は太平島を人間が居住可能で、農業もできる土地としている。軍事的拠点であることは否定しないものの、住環境が整備され、医療施設や太陽光発電なども整っている。
太平島には4箇所の井戸があり、真水が得られる。総出水量は65トンに達する。中でも最も水質が良好とされる5号井戸はそのまま飲用でき、一日あたり1500人分が確保できるとされる。
また、台湾政府の発表によると、島内には108種類もの原生植物が確認されているという。「原生林」の存在でも知られ、樹齢100年の老木が147株あるという。日本統治時代に台湾島から持ち込まれた種子が土着化して繁茂したと推測されるが、鬱蒼と生い茂った様子は動画が公開されており、誰でもその事実を眼にすることができる。
自然生態の保護についても熱心な取り組みがなされており、研究者たちが常駐している。中でも、高雄市政府はここをアオウミガメの生態保護区域に指定している。
さらに、この島には農場もあり、野菜や果物が栽培されているほか、ヤギやニワトリなどが飼育されている。現在、島に駐在する人々の食事は、イモや鶏肉、鶏卵、魚、野菜などは現地産のものが消費されている。
先述の馬英九総統の記者会見では、「フィリピン政府は太平島の地理や歴史への認識、研究が不十分なのかもしれない。私は中華民国総統として、裁判官を含め、実地訪問にご招待したい」とも語っている。確かに、太平島の様子を目にすれば、ここが岩礁ではなく、れっきとした島であることは誰の目にも明らかである。
周知のように、中華人民共和国は南シナ海を「核心的利益の地」としており、あからさまな進出を図っている。2012年には、西沙、南沙、中沙をまとめ、海南省に属する三沙市とした。現在、この海域に漁船団を送り込んで操業をしたり、環礁を埋め立てて、軍事拠点としたりしている。
2015年1月頃からは艦船を用いて示威活動を繰り返すようになり、環礁を埋め立て、軍事拠点を建設するという動きがより活発になった。そして、灯台や滑走路の建設を進めた。これに対し、同年10月27日、米国がイージス駆逐艦「ラッセン」を派遣し、中国の動きを牽制したのは記憶に新しい。
2016年1月2日には中華人民共和国がファイアリー・クロス礁(中国名は永暑礁)を埋め立てて設けた人工島に3000メートルの滑走路を完成させ、試験飛行の成功を発表した。この島は1988年3月14日に中越間で発生した「スプラトリー諸島海戦」で中国がベトナムから奪取した岩礁である。
揺れ動く国際社会の中で、今後、太平島はどのような運命を歩んでいくのか。目が離せないところである。
フランス軍との接触
ラサ島燐礦株式会社の撤退と平田末治率いる開洋興業株式会社による再出発。その間には5年あまりの空白がある。そこを衝くように、フランスがこの海域に介入してきた。1933(昭和8)年、安全航行のためと称し、フランスが軍艦を派遣し、海域の主権を主張してきたのである。
フランスは北二子島を皮切りに領土石を設けていった。これは「先占」を誇示することを目的とした標柱である。通報艦アレルト号が立ち寄った順に設けられ、最初の北二子島の領土石には1933年4月10日と刻まれた。
フランスは同年7月25日に一帯の7島、つまり、長島(イトゥアバ島)、丸島(アンボアン島)、西鳥島(スプラトリー島)、北と南の両二子島(ドゥジュール島)、中小島(ロアイタ島)、三角島(チチュ島)の各島と、その周辺の岩礁を自国領と宣言した。
これは軍事行動を伴ったものではなく、単なる領有宣言だったと判断できるが、ラサ島燐礦株式会社の撤退で管理者がいなくなった島々に対し、フランスが領土獲得の野心を抱いているということで、日本国内には衝撃が走った。
南シナ海はインドシナを治めるフランス以外にも、フィリピンを治めるアメリカやマレーシアやボルネオ島を治めるイギリスなど、列強の利害が交錯していた。その後、日本とフランス、そして、強い姿勢を見せることはなかったが、やはり領有権を主張する中華民国の三国間で外交戦が展開されることとなる。
8月19日、日本はフランスの一方的な振る舞いに対し、抗議した。そして、長年無主だったこの島を最初に治めたのは日本人だったこと、自国民が巨費を投じてその開発に当たってきたことを理由に、自国の領有権を主張した。フランスはこれに対し、「民間企業が行なった私的経営は国際法上の先占の概念には含まれない」と反論。産業上の権益は認めるとしながらも、領有権は譲らず、交渉は平行線をたどっていた。
この時、大阪毎日新聞社は自社で船を仕立て、記者二人を特派員として新南群島へ送った。そして、ラサ島燐礦株式会社が撤退し、遺棄された施設などが詳細に記録され、報道された。記事以外にも、同社は9月に『新南群島探検記』という写真集を発行した。これは貴重なカットが豊富に掲載されており、話題となった。
フランスは具体的な行動に出ることはなく、軍事的な衝突もなかったが、西沙諸島に対しても軍艦を派遣し、日本の動きを牽制していた。それでも、交渉は進まず、未解決のまま、時間だけが過ぎていった。
その後、1938(昭和13)年8月10日、日本はコンクリート製の帝国先占碑を建ててフランスに対抗した。そして、1939(昭和14)年3月30日、日本は公示をもって新南群島の領有を宣言した。翌日17時に外務省はこれを発表し、外務次官の澤田廉三(さわだれんぞう)がフランス政府に通告した。島々と海域は4月18日付けで高雄市の管轄下に入った。
1939(昭和14)年3月31日には高雄神社で新南群島市域編入奉告祭が挙行されている。なお、この領土編入により、日本の最南端(有人地域)は台湾の鵝鑾鼻ではなく、北緯7度の新南群島となり、最西端は東経111度55分55秒の西鳥島となった。
日本編入後の新南群島経営
フランスの「野心」に触れ、日本は南シナ海の拠点としての新南群島の存在意義を再確認するに到った。
ラサ島燐礦株式会社の撤退によって、一度は遺棄された新南群島だったが、ここに平田末治が進出を決める。平田は1935(昭和10)年の春に開洋興業株式会社を設立。資本金は50万円。社長職に就いたのは盬水港製糖株式会社の槇哲社長で、平田自身は専務取締役となっている。
開洋興業株式会社はフランスの動きを強く意識していた。同社は台湾総督府と海軍の後ろ盾を得て、積極的に事業を展開していった。その内容は漁船の救助や漁場の監視、気候観測、通信事業といった公益事業を主軸に置いている。しかし、燐礦石の採掘、そして、豊富な漁業資源の管理という部分が大きかったことは疑いはない。
同社は広大な南シナ海を漁場とし、その中枢として新南群島を捉えていた。この海域ではマグロやカツオ、海亀類などが豊富に獲れた。中でも高雄に本社を構える拓洋水産会社は台湾拓殖会社の関連企業だったが、20トン級のマグロ漁船10隻をもって、南シナ海への漁業進出を目論んでいた。
港湾整備は急務とされ、大規模な築港工事が計画された。文献がなく、詳細を知ることはできないが、水深は干潮水面から3メートル、漁船120隻を収容できる規模が望ましいとされていた。
燐礦石の採掘については、開洋興業株式会社から南洋興発株式会社に移管され、長島、南二子島、三角島の採掘権はこちらに移った。同社は南洋方面で手広く事業を展開していた国策会社で、燐礦石についても、すでにサイパンやロタ、ペリリュー、トコペ(トビ)の4つの拠点を持っていた。
台湾総督府も肥料規則を改正し、新南群島と西沙群島(平田群島)に特例を敷いた。当時、グアノは肥料取締法が認める水溶性燐酸でないことを理由に、加工せずに販売することが禁止されていたが、これを見直すというものだった。これにより、南方資源開発の活性化が促進された。
幻に終わった漁業都市計画
長島は新南群島の拠点として整備された。1939(昭和14)年には長島に都市計画が立てられている。もともと無人島になぜ「都市」計画なのか、誰もが不思議に思うだろう。これは燐礦石資源が枯渇した後、ここに南シナ海の漁業基地を作るというものだった。
この計画は中央部の4~5万坪の土地を整備するものだった。そこには冷蔵庫や製氷所、水産加工場、漁具庫、漁船修理工場を設ける。さらに、共同浴場や病院、社員クラブ、運動場まで設ける計画だった。
戦況の悪化で、これらの計画は完成しなかったが、住宅や気候観測所のほか、ラサ神社と呼ばれる神社などは整備されていたし、日本が設けた波止場の痕跡は現在も残っているという。そのほかにも、給油施設、通信所、医療施設などは稼働していた。
この計画は3~4千人程度の人口を想定していたと言われる。面積から考えても、にわかに信じがたい人数だが、1940(昭和15)年、台湾総督府はこの計画に対して予算を計上している。実際に水産業関連の部分については拓洋水産株式会社が、鉱業に関する部分については南洋興発株式会社が資金を投じて整備に当たっていた。
新南群島から南沙諸島へ
第二次世界大戦が終結すると、新南群島を取り巻く環境は一変する。敗戦国となった日本は台湾および澎湖地区の領有権を放棄したが、新南群島、西沙諸島、東沙島についても同様に、日本の統治下から離れていった。
1951年9月8日、日本は連合国との間に「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」を結んでいる。その第二章「領域」の第2条(f)の項に「新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権限及び請求権の放棄」が記されているが、同条約第2条(b)の「台湾及び澎湖諸島」と同様、具体的に新たな帰属先は明記されていない。これを受け、フランスと中華民国は新南群島に日本が残した施設を接収することに躍起となり、これがきっかけとなって、現在にも続く領土紛争の火ぶたが切られた。
中華民国は新南、西沙、東沙の3群島に「南海諸島」という呼称を与え、1947 年にその領有を発表している。後に成立した中華人民共和国は1950 年に同じく南海諸島の領有を発表している。また、ベトナム国(当時。サイゴン政府)も領有権を主張した。
戦後、長島は中華民国政府によって「太平島」と名付けられた。これは1946年10月5日、戦後の混乱期に乗じてフランスが西鳥島と長島に上陸するという事件が起こり、中華民国はこれに抗議。帰属についての協議が実施されることになったが、第一次インドシナ戦争の影響を受け、フランスは会談を放棄した。中華民国は中業号、永興号、太平号、中建号という4隻の軍艦を長島に向け、広州を出たこれらの軍艦は西沙を経由し、12月12日、南沙に到った。
この時、長島の接収に当たったのが太平号と中業号で、その名にちなみ、太平島の呼称が付せられることとなった。同時に日本統治時代の呼称である新南群島の名も使用されなくなり、「南沙諸島」、もしくは英語で「スプラトリー諸島」となった。
太平島は諸島内で最大の面積を誇り、面積は0・51平方キロメートルで、東西に1289・3メートル、南北に365・7メートルと、楕円形をしている。海抜は高い所でも6メートルほどである。
この島は長らく中華民国海軍の管理下にあったが、2000年1月に政府内に海岸巡防署(海上保安庁に相当)が設けられると、こちらに移管された。行政区画としては高雄市旗津区中興里に属している。台湾政府が実効統治する群島内唯一の島であり、海軍陸戦隊と海岸巡防署が人員を常駐させている。
長らく閉ざされた島ではあったが、2016年3月23日に台湾政府は一部の海外メディアを招き、島内の様子が紹介された。なお、この島は欧米では「Itu Aba Island」と呼ばれている。これは「あれは何ですか?」という意味のマレー語で、国際的な呼称としてはこちらが定着している。
太平島は「島」か「岩礁」か
現在、この海域は台湾(中華民国)や中国だけでなく、ベトナムやフィリピン、マレーシア、そして、派兵行動はしていないものの、ブルネイも領有権を主張している。南沙諸島という表現も、中国語であり、フィリピンはカラヤアン諸島、ベトナムはチュオンサ諸島と呼称が異なるため、国際社会では英語名のスプラトリー諸島という表現が広く用いられている。
この中で、南沙諸島最大の面積を誇る太平島を実効統治するのが台湾(中華民国)である。現在、台湾政府が実効統治するのは太平島の一島のみだが、その意義は大きなものがある(※1)。それはここが群島内で唯一、人間が暮らすことのできる島だからである。
2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、フィリピンが提訴していた中華人民共和国による南シナ海の領有権主張や人工島の建設が国際法に違反するという案件に対し、中国の主張には法的根拠がないという判断を示した。同時に、人工島は排他的経済水域や大陸棚が認められる「島」ではないと判断を示した。
中国はこれを当然のようにはねつけたが、ここに見落としてはならない問題点がある。フィリピン政府が南沙諸島の島々を、「島」ではなく「岩礁」、「環礁」としていたことである。
これについては、馬英九総統(当時)が2016年3月23日、記者会見で触れている。その内容は、太平島は人間が居住でき、独自の経済生活を維持できるという条件を満たしており、『国連海洋法条約』の第121条、「島嶼」の定義に合致しているというものだった。同時に、太平島の主権は中華民国にあり、12海里の領海・領空のほか、200海里の排他的経済水域(EEZ)と大陸棚を主張する権利があるというものだった。
※3
厳密には太平島の沖合2・5キロの地点に中洲礁があり、ここも中華民国が実効統治しているが、管理はされていない。
人間が暮らせる島、農業ができる島
台湾政府は太平島を人間が居住可能で、農業もできる土地としている。軍事的拠点であることは否定しないものの、住環境が整備され、医療施設や太陽光発電なども整っている。
太平島には4箇所の井戸があり、真水が得られる。総出水量は65トンに達する。中でも最も水質が良好とされる5号井戸はそのまま飲用でき、一日あたり1500人分が確保できるとされる。
また、台湾政府の発表によると、島内には108種類もの原生植物が確認されているという。「原生林」の存在でも知られ、樹齢100年の老木が147株あるという。日本統治時代に台湾島から持ち込まれた種子が土着化して繁茂したと推測されるが、鬱蒼と生い茂った様子は動画が公開されており、誰でもその事実を眼にすることができる。
自然生態の保護についても熱心な取り組みがなされており、研究者たちが常駐している。中でも、高雄市政府はここをアオウミガメの生態保護区域に指定している。
さらに、この島には農場もあり、野菜や果物が栽培されているほか、ヤギやニワトリなどが飼育されている。現在、島に駐在する人々の食事は、イモや鶏肉、鶏卵、魚、野菜などは現地産のものが消費されている。
先述の馬英九総統の記者会見では、「フィリピン政府は太平島の地理や歴史への認識、研究が不十分なのかもしれない。私は中華民国総統として、裁判官を含め、実地訪問にご招待したい」とも語っている。確かに、太平島の様子を目にすれば、ここが岩礁ではなく、れっきとした島であることは誰の目にも明らかである。
周知のように、中華人民共和国は南シナ海を「核心的利益の地」としており、あからさまな進出を図っている。2012年には、西沙、南沙、中沙をまとめ、海南省に属する三沙市とした。現在、この海域に漁船団を送り込んで操業をしたり、環礁を埋め立てて、軍事拠点としたりしている。
2015年1月頃からは艦船を用いて示威活動を繰り返すようになり、環礁を埋め立て、軍事拠点を建設するという動きがより活発になった。そして、灯台や滑走路の建設を進めた。これに対し、同年10月27日、米国がイージス駆逐艦「ラッセン」を派遣し、中国の動きを牽制したのは記憶に新しい。
2016年1月2日には中華人民共和国がファイアリー・クロス礁(中国名は永暑礁)を埋め立てて設けた人工島に3000メートルの滑走路を完成させ、試験飛行の成功を発表した。この島は1988年3月14日に中越間で発生した「スプラトリー諸島海戦」で中国がベトナムから奪取した岩礁である。
揺れ動く国際社会の中で、今後、太平島はどのような運命を歩んでいくのか。目が離せないところである。
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