片倉佳史の台湾歴史紀行3 集集線の歴史その1



集集線の歴史(その1)

 台湾中部を走る集集線は1921(大正10)年12月に開業した路線である。全線が濁水渓に沿うように走っており、車窓にはバナナの栽培地が広がり、南国らしい風景が楽しめる。今回はこの路線の魅力と歴史について述べてみたい。


バナナの産地を走るローカル線

かつて、台湾中部は南部と並ぶバナナの生産地であった。日本統治時代は台中州産のバナナは味の良さで知られ、多くが日本本土に運ばれていった。主要な栽培地は現在の南投県一帯だったが、濁水渓によって形成された沖積平野の上にも一面のバナナ畑が見られた。

集集線は台湾最長の河川である濁水渓に沿った支線で、二水と車埕を結ぶ全長29,7キロの路線である。南国らしい風景の中を走り、二水から集集まではバナナ畑の中を進み、その後はやや山がちな車窓となる。現在、バナナの栽培は減少傾向にあり、代わって火龍果(ドラゴンフルーツ)やオレンジといったものが増えている。

水里から先、終点となる車埕までは濁水渓から離れ、その支流である水里渓に沿って走る。この辺りは河岸段丘上に広がる森の中を走り、これまでとは異なった車窓が楽しめる。勾配区間でもあり、心なしかディーゼルカーの唸り声も大きくなったように感じられる。

終点となる車埕駅はトンネルを抜けた先にあり、盆地となっている。ここは木材の集積地として賑わった町で、製材業は過去のものとなっているが、その関連施設が観光整備され、ちょっとした行楽地となっている。




集集線(濁水駅付近)













集集線の歴史

 集集線は水力発電所の建築資材運搬を目的に敷設された。当初は台湾電力株式会社が運営する私設鉄道で、貨物のみを扱う専用線だったが、開業翌年の1922(大正11)年1月13日から旅客営業も始めている。

1927(昭和2)年5月1日には373万8千円で台湾総督府鉄道部に買収され、官営鉄道線となった。この時、路線名が外車埕線から集集線に改められている。

日本統治時代、集集線は縦貫線(西部幹線)との分岐駅である二水、鼻子頭(現・源泉)、濁水、隘寮(現・龍泉)、集集、水裡坑(現・水里)、そして、終点となる外車埕(現・車埕)の各駅が設けられていた。

1937年の時刻表を見ると、1日7往復の旅客列車が設定されている。二水から外車埕までの所要時間は約1時間10分となっていた。


台湾の最長河川・濁水渓

起点となる二水は濁水渓の北岸に位置する小都市である。ここは集集線の分岐駅であり、かつては景勝地・日月潭へのゲートでもあった。人口は1万5千人という小さな町である。

ここは彰化県の南端に位置し、平野の中心にある。濁水渓は中央山脈の合歓(ごうかん)山系を源とする。台湾最長の河川であり、その長さは186キロ。流域面積では台湾南部の高屏渓(日本統治時代の呼称は下淡水渓)に次いで、第二位となっている。

濁水渓の名は、河水が灰色に濁っていることにちなむ。合歓山(3417メートル)と合歓東峰(3421メートル)の間には「佐久間鞍部」と呼ばれる地域があり、ここが濁水渓の水源となるが、この一帯は粘板岩層で、ここを削って流れるために河水が灰色に濁る。そして、流れが速いため、沈殿することなく、下流に流れつく。集集線の車窓からは濁水渓の河水を眺めることはできないが、確かに、どの季節でも河水は濁っている。

なお、二水という地名は、清国統治時代は「二八水」であった。「二八」とは、二手に分かれた渓流が複雑に混じり合いながら流れることを形容した表現である。濁水渓は通常時は流水量が少ないが、上流地域で降雨があると激流と化し、氾濫を起こした。これにちなんだものである。二水となったのは1920(大正9)年の地名改正の時である。


二水駅~美しい白亜の駅舎

 
起点となる二水の駅舎についても見ておきたい。ここは交通の要衝として賑わった駅で、貨物の取扱量も多かった。

駅舎は昭和期の台湾によく見られたスタイルである。竣工は1933(昭和8)年3月31日。設計は台南駅や台北鉄道工場などを手がけた宇敷(うしき)赳夫が担当した。施工は台湾総督府交通局鉄道部改良課が請け負っている。

駅は造橋駅や銅鑼駅(いずれも苗栗県)、路竹駅(高雄市)などの駅舎に似たデザインだが、集集線の分岐駅ということもあって、規模はこちらのほうがやや大きい。

駅構内の線路の配線についても、竣工時から通過線が設けられていた。また、現在は駅舎から島式ホームまで地下道を通っていくが、竣工時は跨線橋が設けられていた。

なお、ここは明治製糖株式会社が運営する製糖鉄道の起点駅でもあった。路線は「南投線」と呼ばれ、列車はしばらく集集線に併走し、現在の濁水駅から進路を北にとって南投まで走っていた。

1923(大正12)年9月1日に首都圏を襲った関東大震災を経て、台湾を含めた建築基準が厳しくなった。これを受け、昭和時代に入る頃から、台湾の駅舎は赤煉瓦造りの駅舎や木造駅舎は数が減り、鉄筋コンクリート構造の駅舎が登場した。

そして、効率を考慮し、類似したデザインの量産型駅舎が検討された。二水の駅舎はその先駆的存在であった。昭和期の量産型駅舎は、今も造橋、銅鑼、大安(現・泰安旧駅)、清水、路竹、橋頭(旧駅舎)などに残っているが、いずれも二水よりは後に設けられている。二水の場合は壁面にまだ赤煉瓦が用いられていたが、柱や梁には鉄骨が用いられている。

余談ながら、この時期に設けられた駅はトイレが駅舎と別に設けられている。このスタイルは、日本統治時代の地方駅舎ではごく普通に見られたものだった。また、風通しを考慮し、門扉がないことや、庇を大きく取って日陰を確保する点も共通している。これは疫病の発生や蔓延を防ぐためであった。


濁水渓の沖積平野を進む

集集線のディーゼルカーは出発後、しばらくは西部幹線と併走する。この辺りも車窓にはバナナ畑が広がっていたが、現在はグアバの栽培が盛んとなっている。線路沿いの小道はサイクリングロードになっており、週末は家族連れでちょっとした賑わいとなる。

最初の駅となる源泉は日本統治時代、「鼻子頭(びしとう)」を名乗っていた。近くには八堡圳の祖とされる「林先生」を祀った廟がある。八堡圳は濁水渓の水を取り入れた埤圳(灌漑用の水路)であり、この一帯を潤してきた。全長941キロで、これによって台湾中部の農業地帯は飛躍的な発展を遂げた。完成は1719年とされ、台湾最古の埤圳にも挙げられる。 

この辺りの河原では「羅渓石」と呼ばれる硯石を産する。硯は二水の特産品として広く知られており、以前ほどの生産量はないものの、今もいくつかの工房が見られる。

濁水は南投市へのゲートであり、日本統治時代は明治製糖株式会社の鉄道とバスの便があった。ここからは所要25分ほどで、南投に到着できた。この駅にはバナナの検査所があり、ここで検査を受けたバナナは貨物列車で台中へと運ばれていった。なお、現在は集集線で唯一の列車交換駅となっている。

濁水を出た列車は高速道路の下をくぐる。その先、1999年の台湾中部大地震で倒れかかった状態になった送電塔が右手に見える。さらにその先には、クスノキの枝葉が天を覆った「緑色隧道(緑のトンネル)」の脇を走る。最寄り駅となるのは緑色隧道を越えた先にある龍泉駅だ。

龍泉は日本統治時代、「隘寮(あいりょう)」を名乗っていた駅である。この一帯は一面のバナナ畑が広がっていた。ここにもバナナの検査所があり、月に8~10回、検査日が定められていた。特等から三等、そして等外品まで、細かい区分があり、それぞれ分かれて運び出されていた。 

集集は新高(にいたか)郡役所の所在地であった。現在も大きな町ではないが、公判な地域の中枢となっており、駅周辺は賑やかだ。ここは長らく台湾中部のバナナ生産拠点だった町で、日本統治時代は台中州下の4分の1の生産量を占めていたとも言われる。

また、駅前を進んで左折すると新高神社があった。神苑にはクスノキの巨木があり、神木とされていた。美しい姿を誇り、集集のシンボルとなっていた。神社は日本人が台湾を去ったことで廃せられたが、巨木は今もその姿を留めている。


その2に続く

源泉駅付近を走る気動車




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