片倉佳史の台湾歴史紀行3 集集線の歴史その2



(前回より続く)

集集駅~復元された日本統治時代の木造駅舎

集集駅には木造駅舎が残っている。言うまでもなく日本統治時代に設けられたものだが、他に残っている木造駅舎たちとはやや異なった歴史を持つ。一度は震災で倒壊し、その後、復元された老駅舎なのである。

1999年9月21日。台湾中部を地震が襲った。集集は震源に近く、最も大きく被害を受けた町だった。地震は午前1時47分に発生し、南投県や台中市で震度6を記録した。この地震は台湾では「九二一大地震」と呼ばれている。

集集の中心部では家屋の大半が倒壊し、その被害は甚大だった。現在、震災からはすでに20年という歳月を経ているが、現地を訪れてみると、今もその傷跡が随所に見られる。中には震災の記憶を後世に伝えるべく、モニュメントとして残されているところもある。

町の玄関だった集集駅もこの震災で半壊の憂き目に遭った。この駅舎は1930(昭和5)年2月2日から使用されている。木造平屋の造りで、日本でもかつてはよく見られた地方駅のスタイルである。駅舎内には戦前から使用されている金庫や鉄道電話が残り、また、硬券乗車券が販売されていたこともあって、鉄道ファンにはよく知られた駅だった。



復元された集集駅


町のシンボルとして扱われる駅舎

震災によって、駅舎は斜めに傾き、支柱には大きく亀裂が入った。建物は東に23度傾いたと言われ、屋根瓦の多くは落下した。筆者が現地を訪れたのは震災から1か月後だったが、確かにいつ倒れてもおかしくない状態だった。 駅周辺の家屋もほとんどが倒壊していた。

駅舎の周囲は長らく立入禁止となったが、見方を変えると、これほどの震災に遭いながらも、全壊は免れたという事実は注目に値する。確かに、大きく傾いてはいるが、完全にはつぶれていなかった。

こういった状態を前にして、専門家は木造家屋の柔軟性を改めて感じたという。台湾史上最大とも言われる震災だったが、皮肉にも、これによって日本式の木造家屋の耐震力が注目された。これは集集にとどまらず、南投や埔里などでも、似たような状態だった。戦後に建てられた建物は倒壊したが、築70年以上の日本式の木造家屋は全壊を免れた。これは中華民国体制に移行した後の建築基準の甘さと、劣悪な素材の多様、地震について疎い建築家・業者の技術力など、いくつかの要因が絡んでいるが、旧来の木造家屋が注目されたのは事実で、大きく話題となった。

その後、駅舎は復元されることとなった。建材を流用できるのはわずかに7%程度であり、大がかりな復元工事となったが、幸い、日本統治時代の設計図が残っていた。作業はこれに従って進められた。

工事で最も悩まされたのは、屋根瓦の補充だったという。日本式の瓦は台湾では製造できないためである。量産型のセメント瓦を採用することも検討されたが、やはり本来の姿に復元するというこだわりがあったようである。結局、取り壊しが決まっていた二水駅付近の鉄道官舎の瓦を用いることになった。

作業は約1年半という時間を要し、2001年2月7日に竣工式が行なわれた。震災の教訓を得て、この「古くて新しい木造家屋」は、震度7の激震にも耐えられるようになっているという。

現在、集集は台中から日帰りで往復できる手軽な行楽地として観光地化が進んでいる。駅前には土産物や食べ物を売る屋台が並び、レンタサイクルなどの店も出ている。週末ともなれば、人出も多く、売店などでは震災時の様子を絵ハガキにしたものが人気商品になっているという。 

駅舎はこれからも町のシンボルとなっていくに違いない。



集集駅の様子



深い緑の中を走って終着駅・車埕へ

集集を出た列車はいくつかのトンネルに入り、水里に向かう。ここは新高山(玉山)の登山口として知られていた。それだけでなく、日月潭や埔里、霧社方面への玄関口ともなっており、多くの人々で賑わっていた。

水里は水力発電所の町でもあった。現在も発電所は稼働中で、駅前の通りを歩いて水里渓の橋まで行けば、左手に水管が見える。また、その上方には工員たちの官舎が残っている。ここで売られているアイスキャンディーはちょっとした名物になっており、週末になると、これを目当てにやってくる行楽客がいるほどの人気だ。

水里を出た列車は左に大きく曲がり、濁水渓からは離れ、水里渓に沿って走る。山間を走るようになるが、両脇にはバナナ畑が広がる。そして、いくつかのトンネルを過ぎると終点の車埕に到着する。

車埕駅は日本統治時代、「外車埕(がいしゃてい)」の名で設けられた。ここは日月潭や埔里方面に向かう拠点となっており、台湾製糖株式会社が経営する台車軌道(手押し台車)の便があった。しかし、後に水里からバスが出るようになると、こちらが主要ルートとなった。

集落は盆地にあり、大きな製材所があった。車埕の駅舎もログハウス風の建物となっている。構内は広く、静態保存されている客車や貨車が並ぶ。戦後は木材運搬と製材の拠点として賑わった。今も随所に工場や製材所の遺跡が残り、職員が暮らしていた宿舎群もその姿を留めている。

貯水池の畔には木造家屋を用いた休憩所がある。また、車埕木業展示館は遺棄された製材工場をそのまま利用したという文物館だ。郷土文化や林業に関する展示があるほか、トロッコなどで遊ぶこともできる。


東アジアの最高峰・新高山(玉山)に登る

当時、新高山の登山ルートは、ここからと阿里山からの2つのルートが知られ、水里は「北登山口」と呼ばれていた。阿里山ほどではないが、登山客で賑わいを見せていたという。

水裡坑から新高山(玉山)の山頂までは78.2キロとなっていた。行程は水裡坑駅から東埔までの37.2キロは手押し台車(トロッコ)を利用する。所要時間は約7時間。運賃は4人乗りが9円96銭、3人乗りが4円99銭、2人乗りがだ3円99銭となっていた。その後は東埔温泉まで2・2キロを40分ほどかけて歩く。ここには警察が管理する東埔山荘という宿があった。

翌日はここから楽楽、対関、観高といった集落を経て、八通関まで14.4キロの道のりを歩く。ここに約7時間を要する。そして、八通関から新高山の頂上までは6.4キロだが、坂道が続くため、徒歩で4 時間を要した。宿泊が可能なのは東埔と八通関の二か所で、通常、4泊の道のりとされた。余談ながら、新高登山は事前に新高郡役所に出向き、許可証の取得が義務付けられていた。



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