片倉佳史の台湾歴史紀行4 劉銘傳と台湾~清国統治時代末期の様子と鉄道建設 その1
劉銘傳という人物
劉銘傳(りゅうめいでん)は台湾史を学ぶ上で欠かすことのできない人物である。一般的には「台湾に電灯をもたらした人物」として知られており、台湾における郵便の創始者でもある。また、鉄道や道路の敷設に熱心で、衛生事情の改善にも努めた。台北には劉銘傳の名前を冠した大学があるほどである。
台湾史における劉銘傳の存在は輝かしいものがあり、多くの書籍が刊行されている。劉銘傳はもともとは身分の低い人物で、匪賊に身を置いていた時期もある。中国安徽(あんき)省合肥(ごうひ)に生まれ、幼少期は貧しい暮らしを強いられたが、1851年に洪秀全(こうしゅうぜん)が太平天国の乱を起こし、社会が混乱すると、同じく合肥出身の李鴻章(りこうしょう)の淮(わい)軍に入り、討伐側に就いて活躍する。ここで曽国藩(そうこくはん)に見初められ、頭角を現わすようになった。
しかし、功をなして爵位を受けた劉銘傳は、郷里に戻り、ここに籠ってしまう。この間の動きは謎に包まれており、空白の時間となっている。記録によると、故郷に家を建て、周囲にたくさんの花を植えていたという。そして、書院を設けたり、祖廟の修繕などを行なっていたとされているが、実際は、貧困ゆえに学業を続けられなかった過去を憂い、勉学に没頭していたと言われる。まだ40歳に達しない青年は、自宅に文人や儒家たちを招き、学問に勤しんでいたのである。
1856年にアロー戦争(アロー号事件)が起こり、1858年6月に清国は英仏をはじめとする欧米列強と天津(てんしん)条約を結んだ。この条約によって基隆港が1863年に開港となったが、1884年にはベトナムの領有を巡って清仏戦争が勃発。フランス軍はアメデ・クールベ提督率いるフランス極東艦隊を台湾に派遣し、基隆(きいるん)湾を攻撃した。
1884年8月5日、劉銘傳は再び登用され、台湾へと向かった。フランスは基隆を砲撃した後、上陸を試みたが、劉銘傳率いる援軍の到着によって阻止されることになった。
フランス極東艦隊は台湾からは追い払われたものの、その後、福州の攻略に転じる。そして、1884年8月23日の馬江海戦で、清国福建艦隊がわずか1時間ほどで22隻も撃沈されるという惨劇が起きる。この時の清国軍水兵の死者は3千名を超えたという。
イギリスが香港を拠点としたように、東アジア方面進出の拠点として、台湾に着目していたフランスは、再び台湾攻略を試み、この時は戦線を基隆湾から滬尾(こび・現在の淡水)にまで拡大させた。この戦役は「滬尾戦役」と呼ばれ、ここでも清国は台湾上陸の阻止に成功した。現在も淡水には戦役後の1886年に設けられた滬尾砲台が残っており、史跡として扱われている。
こうしてフランス軍は台湾上陸を諦めたが、膠着状態は長らく続くこととなった。フランスは台湾海峡を勢力下に置き、打狗(高雄)や安平(あんぴん)を海上から封鎖することで、台湾を封じ込めたのである。
1885年6月9日、天津条約(李鴻章・パトノートル条約)が締結され、ベトナムがフランスの保護国となった。これにより、フランスは台湾海峡の封鎖を解き、占領していた澎湖から撤兵し、清仏戦争は終了した。
余談ながら、フランスの東アジア進出は執拗なものがあり、1894年7月25日に勃発した日清戦争にも陰を落としている。1895年4月17日に締結された下関条約の交渉の際、清国全権大使の李鴻章との折衝に当たっていた伊藤博文と陸奥宗光は、密かに澎湖(ぼうこ・ほうこ)へ軍隊を派遣していた。そして、3月26日に混成支隊が媽宮(現在の馬公)湾を占領。これが交渉を有利に進めるきっかけになった。この動きはフランスが澎湖海域に侵入してくることを警戒したためとも言われている。
低迷する清国と洋務運動
清仏戦争で清国は自らの実態を世界に晒すこととなり、腐敗した政治と旧態依然とした支配体制の終焉は確実なものとなった。これを機に、フランスのみならず、イギリスやアメリカなどは野心を隠さないようになり、同時に、台湾の地理的重要性が再認識されるようになった。そこには新興国・日本も深い関わりを持っていた。
1871年に台湾に漂着した宮古島島民遭難事件と、その後の日本軍の台湾出兵を受けて動揺した清国は、沈葆楨(しんほてい)を派遣し、台湾経営を強化したが、それ以来とも言うべき新しい政策を練る必要に迫られた。
当時、清国内では洋務運動が起こっており、李鴻章などを中心に各種改革が進められていた。洋務運動は1860年代に始まり、欧米の先進的な科学技術を導入し、清国の国力増強を目指したものである。自強運動とも呼ばれ、「中体西用」(中華の実体を保ちつつ西洋の手法を用いる)をスローガンとして進められていた。
当時は清国第10代皇帝の同治帝の時代だったが、幼少であることを理由に西太后が実権を掌握し、皇帝の背後から「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」を行なっていた。それでも、官僚たちは軍隊の近代化と指揮権の統合を進めていた。しかし、専制と腐敗の中で改革は遅々として進まず、保守的な思考が目立ち、派閥による対立も激しかった。
そこで洋務派は一策を講じた。それまで福建省に属していた台湾を一省として扱い、台湾省とすることである。そして、分離した台湾省の巡撫(知事)に、洋務派の旗手とも言うべき劉銘傳を送り込んだのである。
劉銘傳は清仏戦争が終結する直前、1884年10月29日に福建巡撫となっている。翌年10月12日に台湾が一省として独立。台湾は清国の20番目の省となった。初代台湾巡撫には劉銘傳自身が就いた。
当時、すでに皇帝は光緒帝の世になっていたが、依然として、実権は西太后が握っていた。光緒帝の父親である醇親王(じゅんしんのう)に対し、劉銘傳は台湾における施政に制限を加えないことを直訴し、許されたという風聞も存在しているのが興味深い。
つまり、劉銘傳はさまざまな妨害に遭いやすい清国本土ではなく、新天地である台湾で、思うままに改革を行なおうとしたのである。時に49歳。その気概は熱く、台湾省が全清国の模範となることを目指していた。赴任に当たり、気持ちが揺らぐからと、あえて家族を郷里に残し、単身で台湾に向かった。
台湾史の中でも注目される6年
劉銘傳が台湾にいたのはわずか6年あまりである。しかし、多方面において発展の基礎が築かれたことは疑いない。軍事面を重視していたが、行政や教育、交通など、さまざまな分野で改革が進められた。
具体的には、防衛の強化、軍備の再編、そして、各種インフラの整備。台湾初となる鉄道建設や、電信ケーブルの敷設、そのほか、郵便制度や電報の創始、炭鉱開発、学堂の設置、灌漑用水路の整備、そして電灯の整備など、枚挙にいとまがない。
当然ながら、こういった改革・刷新には莫大な資金を要する。そのため、行政機構の簡素化を推し進め、土地調査や税制の見直し、樟脳や硫黄の専売化、石炭採掘事業の官営化などを実施し、財源の確保に努めた。台湾で最初となる公的医療機関もこの時期に整備された。
もちろん、良い面ばかりではなく、急激な近代化による弊害もあった。特に、財源を確保するために行なった土地測量事業については、末端の官吏の不当な振舞いに民衆が立ち上がり、1888年10月に台湾中部の彰化で施九緞(しきゅうたん)tの乱が起きている。この乱は数千人の民衆が集まったとされている。
理想半ばで台湾を去った
ヌルハチによる建国以来、276年の歴史を誇る大清帝国だったが、劉銘傳が台湾の地で行なった施政は最も開明的で、積極的なものだったとする意見もある。6年という短い時間を経て生まれ変わりつつあった台湾は、「清国で最も進歩した土地」と評されることもあった。
しかしながら、劉銘傳の理想は夢半ばにして終わりを迎えた。清国中央の政争に遭い、1891年6月4日をもって召還されてしまったのである。
劉銘傳は故郷に戻った後、1896年1月12日に病没している。そして、思い描いていた理想は、新しい統治者となった日本に受け継がれる。自らが手掛けた台湾を日本がどのように発展させていくのか、病床に伏した劉銘傳はどんな気持ちで見ていたのだろうか(その2に続く)
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