片倉佳史の台湾歴史紀行4 劉銘傳と台湾~清国統治時代末期の様子と鉄道建設 その2
(その1より続く)
劉銘傳が見た当時の台湾
1884年、すでに清国は欧米列強に国土を蝕まれ、無惨な状況にあった。戦火が続き、不平等条約に苦しめられ、そして、腐敗した官僚政治が横行する。まさに身動きが取れない中で、人々は苦しみと失意の中に喘いでいた。そういった屈辱を味わっていたこともあり、劉銘傳は国防を強く意識していた。そして、鉄道を富国強兵を担うものとして重視していた。
台湾に着任するや、台北城内に巡撫衙門を置き、ここを行政庁舎とした。その場所は日本統治時代に建てられた台北公会堂(現在の中山堂)の敷地の傍らに位置し、現在は石碑が設けられている。
劉銘傳は台湾に入った際、想像以上の混乱、そして疲弊に驚いたと言われている。長らく福建省の下に置かれていた台湾に対し、清国官憲は統治に消極的だった。人々は貧しく、衛生状態も悪い。そして、道路一つにしてまともなものはなく、不備不便という言葉そのものであった。
清国最初の鉄道
清国本土における鉄道建設についても記しておきたい。
清国の鉄道は1865年、同治帝の時代に誕生した。もともとは上海在住の英国商人たちが上海と郊外の呉淞(ごしょう)との間の敷設を請願したことを端緒とする。
呉淞鉄道は上海租界と港湾のあった呉淞を結ぶ約15キロの鉄道だった。英米両国は何度となく清国に鉄道建設を請願していたが、当時の清国官憲は保守的な思考に陥っており、認められることはなかった。そして、清国の民衆は汽車を不気味なものとして忌み嫌った。なお、洋務派の李鴻章は太平天国の乱を平定するためにも鉄道は有効だとして支持に回ったが、やはり却下されてしまった。
そこで英米商人は事後承諾という形で工事を始めた。名目上は港に向かう新しい道路を造るということで工事が行なわれ、1876年に工事は終了。7月1日に旅客営業が始まった。
この鉄道は中国史上最初の商業用鉄道だったが、悲しい運命を歩んだ。人々は機関車を「煙を吐く鉄の車」と呼んだ。悪魔と称され、機関車が忌み嫌われただけでなく、鉄道に従事する人々を悪魔の使徒と罵り、病気が蔓延すれば鉄道のせいだと騒ぎ、身内に不幸があれば鉄道会社に賠償金を請求するなど、大騒ぎの状態だった。家畜の成長を妨げ、さらに、街を線路が貫くと、風水が悪くなると言って、線路を剥がそうとする人が続出した。
結局、開業から一年足らずで、収拾がつかなくなってしまった。鉄道は清国に買収された上で撤去された。1877年10月20日、最後の列車が出て、清国最初の鉄道は廃線となった。この時、イギリスから持ち込まれた機関車は、長江に投げ捨てられた。追い打ちをかけるように、人々は厄払いとして爆竹を鳴らし、金紙を焚いたという。
清国最初の鉄道は実に短命だったのである。
台湾鉄路と劉銘傳
台湾鉄路の端緒が開かれたのは1887年のことだった。劉銘傳は盟友とも言うべき李鴻章の支持を得て、工事に着手した。李鴻章もまた、清国中央で各種改革を試みていた時期である。日本が台湾領有を決める8年前のことだった。
劉銘傳は鉄道敷設について、以下のように上奏している。
「台湾島は海防の要地であり、殖産興業を進め、産業発展を促し、富強を計るべきである。その目的を果たすためには、大規模輸送機関が不可欠である」
そして、台湾に鉄道を建設する利点としては、以下を強調した。
1)台湾島の南北に位置する基隆と安平(あんぴん)は砲台が築造されており、防備は整っているが、それ以外は全くの無防備である。鉄道があれば、軍隊の移動に有利である。
2)中央に台湾省の省城を造るために、資材運搬に便宜を図る(これは台湾省の首府を現在の台中に設けるというプランだった)。
3)台湾は河川が多く、季節による流水量の変化が大きい。これを渡る不便を解消できる。
この上奏は採用され、1887年4月28日に認可を受け、5月20日、大稲埕に「全台鉄路商務総局」が創設された。そして、ドイツ人技師ベッケルを招聘した。清国最初の鉄道がイギリス人によってなされたのに対し、台湾最初の鉄道はドイツ人によって進められたことに注目したい。清国において理不尽な振舞いを繰り返すイギリスを嫌い、清仏戦争でフランスに苦汁をなめさせられた劉銘傳は、英仏に頼ることを極度に警戒していた。そして、遅れてやってきた新興国であり、科学と技術において、絶対的な自信を持っていたドイツもまた、台湾という土地に強い関心を抱いていた。両者の利害は一致していたのである。
静態保存される「骨董機関車」
台北二二八和平紀念公園の敷地内に静態保存されている蒸気機関車についても紹介しておきたい。
機関車は2両あり、左手のものは「騰雲(とううん)」号、右手のものは9号機関車と呼ばれている。いずれも1世紀を超える歴史を誇る「骨董機関車」である。
騰雲号は1887年、劉銘傳が鉄道建設に着手した際、ドイツのデュッセルドルフに本社のあるホーヘンツォレルン社から輸入したものである。基隆~台北間が開通した当年から使用されており、1895年に日本軍が接収している。
この機関車は台湾に初めてもたらされたということで、第1号機関車と呼ばれていた。「騰雲」の命名は劉銘傳によるものである。ちなみに同型の機関車はもう一両あり、2号機関車、もしくは「御風(ぎょふう)」号と呼ばれた。ただし、こちらは1928年に引退し、解体されている。
また、特別な愛称こそないものの、9号機関車も騰雲号に負けず劣らずの名車両である。騰雲号が台湾初の機関車であるのに対し、こちらは日本を最初に走った蒸気機関車なのである。
この機関車はイギリスのエイボンサイド社製で、A-3型という形式だった。1871年にブリストルの工場で製造された。1872年10月14日に新橋(汐留)~横浜(桜木町)間の鉄道が開業した際、同線を走った10両のうちの1両である。
この機関車は除籍後、台湾総督府へ譲渡されている。台湾へ送られたのは、当時は7号機と呼ばれていたこの機関車と、5号機の2両だった。しかし、5号機は海難事故に遭い、五島列島沖に沈んでしまった。そのため台湾に到着したのはこの7号機のみだった。なお、台湾に到着した際、すでに8両の機関車があったため、1906年に9号機と命名されている(後にE-9型と形式名称が変更されている)。
9号機関車は主に高雄(打狗)と台南の間を走っていた。1926年には現役を退いたが、歴史的価値が認められ、1928年に台北新公園(現在の二二八和平紀念公園)に保存されることになった。
騰雲号については興味深いエピソードが残っている。それはこの機関車が呉淞(ごしょう)鉄道で走っていたものを廃線後に台湾に移送したという説で、これが長らくまかり通っていた。これは日本統治時代の解説板にこういった記述があったことに起因する。
しかし、これは明らかに事実に反する。この辺りの状況は、台湾に関する数々の作品を手掛けた作家の西川満による『台湾の汽車』に詳しい。自身が無類の鉄道好きだった西川は、機関車を紹介した立て看板の記述に疑問を呈している。
そもそも呉淞鉄道と台湾鉄路はゲージ(軌道幅)が異なり、呉淞鉄道は軌間762ミリ、台湾鉄路は1067ミリである。ここから考えても呉淞鉄道の機関車が台湾に運び込まれたというのは無理がある。線路と機関車が台湾に運び込まれる予定があったという記録はあるものの、やはり、劉銘傳の指示下、直接ドイツから購入した機関車であると考えるべきだろう。
鉄道工事の進捗と劉銘傳の離任
工事は1887年6月9日から始まった。まずは台北~基隆間、翌年には台北~新竹間の敷設準備も始まった。この鉄道は前者が1891年10月20日に全通し、後者が1893年10月30日に開業した。
これは全中国史上、最初の官営旅客鉄道という意味でも注目される。呉淞鉄道は外国人による民間経営の旅客鉄道であり、官営ではなく、官設でもない。これだけを見ても、当時の台湾には、清国本土では決して見られない新しい試みが劉銘傳によってもたらされていたことがわかる。
先にも述べたように、劉銘傳自身は基隆~台北間の鉄道が開通した年に台湾巡撫の地位を離れている。1888年11月16日に工事が終了した台北~錫口(現在の松山)間と翌年開業の錫口~水返脚(現在の汐止)間の列車は見届けたはずだが、基隆から新竹までの鉄道に乗ることは叶わなかった。
劉銘傳の後任となったのは邵友濂(しょうゆうれん)だった。家柄もよく優秀で、劉銘傳とは清仏戦争の際、ともに台湾防衛にあたった盟友でもある。しかし、やや保守的な人物で、官僚的だったという評価がある。また、劉銘傳の施政は資金の調達ができずに行き詰まっており、民衆の反発を招いていた。これを受け、劉銘傳が手掛けた新政の多くを中止してしまった。鉄道建設にも消極的で、工事こそ継続されたものの、発展が鈍ってしまったことは否めない。
そして、劉銘傳が描いた理想は、新たな統治者となった日本人に受け継がれていくこととなった。基隆と台南・高雄を結ぶ縦貫鉄道(縦貫線)は1908年に完成し、鉄道は台湾の発展に大きく寄与していったのである。
清国統治時代末期という時代と鉄道建設
劉銘傳と鉄道について考える際、最も注目しなければならないのは、やはり、国防と鉄道を連動させていたことであろう。フランスとの戦いの中で、自国の脆弱さを思い知らされた劉銘傳は、改革を志すも、清国の政界は政争に明け暮れ、汚職も横行していた。こういった実情の中、劉銘傳は台湾との縁を得て、ここに注目するようになった。
そして、フランスとの戦闘を経て、台湾島の西側の防備が何もなされていないことに気付く。そのため、基隆と安平の港と台湾西部の各都市を鉄道で繋ぎ、中国大陸沿岸部と台湾を連結させることを思いついた。これもまた、国防を意識した視点と言えるだろう。
さらに、鉄道建設を上奏した際には、大規模輸送のメリットを挙げるだけでなく、北からはロシアが虎視眈々と侵略の機会をうかがっていることに触れている。劉銘傳は中央に対し、ロシアが攻めてこないのはシベリア鉄道が未開通だからだと直言している。
当時、国力を強化するために大規模輸送機関の整備を急ぐのは世界の常識だった。清国も例外ではないが、本土ではそれを実現することができなかった。絶え間なく続く欧米列強の侵略に対し、清国がいかに立ち向かっていくか、その基礎を担う存在としての鉄道に劉銘傳は強い関心を抱き、台湾でそれを実現したのである。
日本が台湾を領有する1895年以前の時代は、西太后を中心とする清国の政策、洋務運動を推進した曽国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)、張之洞(ちょうしどう)らの動き、また、地政学的見地から見た台湾の重要性、そして、イギリスとフランスを中心とし、アメリカやドイツ、ロシア、そして日本を巻き込んだ国際情勢など、台湾史を学び、考える意義がぎっしりと詰まっている。そして、劉銘傳が去った後に続く台湾の日本統治時代との関連性も興味が尽きないところである。
こうして台湾の鉄道は、1895年を境とし、新たなステージに向かうことになったのである(本稿終わり)。
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